
今多コンツェルン広報室の杉村三郎は、事故死した同社の運転手・梶田信夫の娘たちの相談を受ける。亡き父について本を書きたいという彼女らの思いにほだされ、一見普通な梶田の人生をたどり始めた三郎の前に、意外な情景が広がり始める―。稀代のストーリーテラーが丁寧に紡ぎだした、心揺るがすミステリー。---データベース---
ある意味この小説は宮部みゆきの作品の中でスリリングな部分に乏しいのでいまいち人気が出ない部類に入るかもしれません。平凡な現代社会の一面を切り取っただけの小説でしかないのですから。一応展開は推理小説になっていますが、最初から犯人像らしきものは提示されています。そういうこともあり、これは推理小説として楽しむよりは、普通の人間ドラマとして楽しむ方が良さそうな小説です。しかし、人物設定にしても展開にしてもそこは宮部みゆきですから、一ひねりも二ひねりもしてあります。
元出版社勤務で現在は広報室で働く編集者である主人公の杉村三郎にしても、いわくありげな設定です。つまりは今多コンツェルンという財閥会長の娘婿であるといういわゆる逆玉の輿のマスオさんという位置付けです。妻の菜穂子は会長が妾に産ませたお嬢様で、金銭的にはなんの不自由もなく暮している。二人の間には4歳になるひとり娘の桃子がいて、この娘が主人公以外の最初の登場人物として出てくるのもいわくありげです。いちおう、犯人探しというのが基本的な流れですが、随所に出てくる父と幼い娘の会話や、庶民とお嬢様の子育ての考え。一般社員の財閥会長の養父への恐れや、会社内での微妙な立場が面白いのだ。こう書いてみると人間ドラマとして捉えた方がすんなりと読み進められます。
で、財閥会長のお抱え運転手が自転車に轢き逃げされて命を落とす事故が起こります。犯人はおぼろげながらに浮かんで入るようですが、なかなか解決の方向が見いだせません。そういう流れの中で、遺された娘が父親の思い出を本にして犯人を見つけたいと会長の今田嘉親に相談します。そこで会長は、娘婿である広報室の杉村三郎に応援するようにいいます。そこで、杉村は遺された娘たちに会います。臆病で心配性の10歳年上の結婚間近の姉の聡美と、勝気で子供っぽさの残る女子大生の妹の梨子という美人姉妹です。妹の方は本の出版に積極的ですが、姉の方は父の過去をこれ以上妹には知られたくないという態度です。人の娘の相反する考えに挟まれながらも杉村は運転手の過去を調べることになります。
こうして杉村は彼女たちの意向の違いを気遣いながらも、調べを進めていくわけですが、平凡と思えた父親はお抱え運転手になる前の人生に意外な影が見いだされてきます。長編小説の中で、その謎の部分が少しづつ氷解していく手腕は見事です。ここに姉妹の考え方の違いが如実に浮き彫りにされていく様と、その立ち振る舞いに細かく注意して読んでいくと微妙な意識のずれがこの小説の核心と緻密に絡んでいることが分かります。そして、杉村自身の於かれた立場での家族の問題も浮き彫りにされ、妻の家柄の重圧の中で子供のお受験という身近かな問題もさりげなく取り上げられていてなかなか現実感があります。
肝心の犯人探しも、ちゃんと警察も絡んで進展していきます。しかし、犯人が中学生ということもあり警察の動きも慎重です。それにしても、聡美の結婚式が何度も中止ということになりかねない流れは、いささか気になります。まあ、ここには両親の過去の事件との関わりが深く関与している部分もあるのですが、それも杉村の活躍でだんだんと氷解していきます。ただ、確かに過去にはとんでもないことが起きていたことは事実のようです。その辺りはさらりと書き流してあるのであまり浮き彫りにされませんが、事は殺人と死体遺棄に絡みます。といっても、時効が成立している案件ではあります。
さて、調査の方は大団円へ向けて進みます。父親の過去を調べるということで出生地を訪ねることにします。本来は妹の梨子の仕事なのですが、杉村はある事実の確認も含めて自らも出かけていきます。淡々とした展開ですが、そこでは衝撃の結末が描かれます。タイトルの「誰か」という部分は実は父親をひき殺した犯人ではなく、この人物ではなかったのでしょうか。それが明らかにされます。
一筋縄ではいかない宮部作品、ここでもやってくれました。心配性な姉と自由奔放な妹、両親と過去を共有した姉と幸せな愛に包まれて育てられた妹、その心の葛藤が最後に描かれます。この姉妹の関係はこの後どうなるのでしょう。作者は、その辺は突き放してしまいます。多分結婚話は破談になるんでしょうなぁ。なんか、厳しい現実ですが、小説にそんな暗さはありません。なんせ、一粒種の桃ちゃんは輝いています。