カラヤン 帝王の世紀 | geezenstacの森

geezenstacの森

音楽に映画たまに美術、そして読書三昧のブログです

カラヤン 帝王の世紀

著者 中川 右介
出版 幻冬舎 幻冬舎新書

イメージ 1


 音楽、権力、メディア、テクノロジー…、すべては一人の男に制覇された。「クラシックジャーナル」編集長による歴史的考察。政治に翻弄されながらも芸術に生き、芸術に生きながらも権力闘争を止めず、権力闘争をしながらも音楽を奏で続けた人生。---データベース---

 この本はカラヤン(1908-1989)の活躍した20世紀を俯瞰する形で、生まれる前の1901年から生誕100年を迎えた2008年までの記録を年表形式で要領よく纏めてあります。中川右介氏はこの本以外にもカラヤン関係の著作を書いていて,他社から出した「カラヤンとフルトヴェングラー」「カラヤン帝国興亡史」などがあります。どうもこの本はそれらを書く時にメモ代わりに整理した資料を本にしたような内容になっています。ここで使われている要約の内容が、彼の別の著作で同様な表現で使われていたりします。1946年の項目なんか、チェリビダッケのショスタコーヴィチの交響曲第7番の演奏会のことが取り上げられていますが、この出来事は他の著作でも使われています。

 ただ、カラヤンの一生をそれだけ追うのではなく世界の動きの中で彼の足跡を辿ることで,カラヤンの前半生記はヒットラーとともに生き、後半生は自らの権力維持の野望に突き進んだ男の一生が浮き彫りにされていています。これは,今までのカラヤン本とはいささか視点の違う視点でカラヤンを捉えているということでそれはそれで興味深く読むことが出来ます。

 本書は短いながらも次の章立てで書かれています。

1章 誕生(1901(1908)~1928年)—誕生前から指揮者になるまで
2章 雌伏(1929~1945年)—プロの指揮者になって、奇蹟のカラヤンと呼ばれ、敗戦まで
3章 野望(1946~1956年)—敗戦から、ベルリン、ウィーンを手中に収めるまで
4章 栄光(1957~1964年)—帝王時代
5章 再起(1965~1978年)—復活祭音楽祭の成功、ベルリン・フィルとのピーク
6章 残照(1979~1989年)—晩年の録音・録画への執着、そして死
7章 光芒(1990~2008年)—死後も高まる名声、生誕100年を迎えて

 年表形式で書かれていますから,思いがけずカラヤンの生きた時代が我々の知りうる大作曲家たちと重なり合う時代の人間であることが分かってきます。いきなりヴェルディの死から始まりますが,この時代まだプッチーニは健在ですし,リヒャルト・シュトラウスなんか現役ばりばりです。こうして見るとカラヤンは同時代の音楽を結構演奏していることになります。

 また、例えば1912年の項を開くと、この年カラヤンは4歳、本格的にピアノを習い始めた年であると記されています。そして人前でピアノを演奏しているのです。つまり巨匠初めてのコンサートが開かれた年でもあるのです。更に同じ年にはチェリビダッケやショルティ、ヴァントといった後のライバル指揮者たちが生まれた年でもあると記されているし、何よりも我々に身近なのは元号が明治から大正に変わった年だということです。そして、あのタイタニック号が沈没した年でもある。こうして我々はカラヤンのライフストーリーを知るだけでなく、それと対比して世界の動きも知ることが出来る構造になっています。このように、音楽を中心に20世紀を俯瞰出来るとは、教科書では味わえない近現代史の愉しみができますし、こういうことで歴史に興味が持てるのではないでしょうか。

 さて、興味深いのは「『まえがき』にかえて」に、「『二十世紀を代表する人物をひとり挙げよ』という命題への回答として、レーニンでもヒトラーでもスターリンでも毛沢東でもなく、あるいは、アインシュタインでもピカソでもビートルズでもなく、カラヤンを挙げたい。」と記されています。 確かに音楽産業という切り口で語る上では彼ほど,そのビジネスモデルを追求した人物はいないでしょう。レーベル的には世界のメジャーのうち、EMI、ドイツグラモフォン、デッカと深く関係し、エレクトロニクス的にはソニーとの深い関係でCDの誕生に関わっています。さらには映像の分野でも先鞭を付けています。
 
 1954年、カラヤンの前に巨大な壁として立ちはだかっていたフルトヴェングラーが亡くなると同時に、帝王への道は開けていきます。翌55年にベルリン・フィル首席指揮者に内定し、翌年にはザルツブルク音楽祭芸術総監督とウィーン国立歌劇場芸術監督という地位も手に入れます。クラシック音楽界における三つの最高ポストに同時に就いたことのある音楽家は、後にも先にもカラヤン一人だけです。

 以後の活躍の足跡はこの本を読んでもらうとして,著者は2000年の来日公演を評してこう記述しています。
「1950年代後半のカラヤンは、2000年のアバド(ベルリン・フィル)、小澤(ウィーン・フィル)、ムーティ(スカラ座)、アシュケナージ(フィルハーモニア)の仕事をひとりでこなしていた――あるいは、四人分の権力を握っていたのである」と。

 ただ、あまりにも唐突にカラヤンとショスタコーヴィチの関係を、「(カラヤンの生涯は、)狂気の独裁政治のもので生涯を送ったがために平穏な生活を望み、表向きは戦うのを避け妥協しつづけることで生き延びながら、曲を書き続けたショスタコーヴィッチの生涯とは、まさに表裏の関係にある」とまとめているのはちょっと抵抗があります。なんとなれば、カラヤンはショスタコーヴィチの交響曲を第10番しか録音していないのですから。

 さて、フルトヴェングラーの呪縛から解放されたカラヤンは自分の帝国を守るためにフルトヴェングラーと同じ手法を使っていきます。ライヴァルと目されるバーンスタインにはベルリンフィルへ呼びませんし(1979年に一度だけ登場しています)、ショルティもカラヤンのいない時にしかザルツブルクに登場していません。チェリビダッケもカラヤン時代はベルリンを振ることはありませんでした。,

 さて、膨大な量のレコーディングを残したカラヤンですがカラヤン最大のセールスを記録したレコード(CD)はベートーヴェンではありません。カラヤン死の年に発売された「アダージョ・カラヤン」です。折からのヒーリング・ミュージックのブームにのりグレ付きの「悲歌の交響曲」やグレゴリオ聖歌のCDとともに1994年の死の5年後(にヨーロッパで大ブレークし、全世界で500万枚売れました。スポーツカーを運転、ジェット機も自ら操縦しスピード狂として知られていたカラヤンにとっては何とも皮肉なヒットです。

 個人的には決して「カラヤン命」というタイプではなく、強いて言えば「アンチカラヤン」に近かった小生ですら,物心ついた時には巨大な存在でした。そういう人物を歴史の中の一個人として捉えることがこの本の主目的のような気もしますが,「あとがき」の中で引用されている言葉の重さがずしりと響きます。それは映画「第三の男」の名台詞です。
「ボルジア家の30年の圧政はミケランジェロ、ダ・ヴィンチ、そしてルネッサンスを生んだが,スイスの500年の民主主義と平和は何を生んだか?鳩時計だけさ。」
つまりは平和な時代には真の芸術は生まれないということなのです。だからこそ、カラヤンはヒットラー、フルトヴェングラー亡き後、自ら権力闘争という戦いに臨んでその中で駆け抜けてきたのだと・・・ある意味真理を突いています。