1977年版の『八つ墓村』は、その「たたりじゃ~!」のイメージを頭に置いて観始めると肩透かしをくう、いたって物静かな画面が淡々と続く作品になっている。その為、きわめてアクの強い登場人物が連続して顔を出してくる横溝正史ワールドとはちょっと違う雰囲気がある。

1970年は国鉄が山陽新幹線開通と合わせて、西日本の地方線にも個人旅行客や女性客を集めようとして「ディスカバー・ジャパン」というキャンペーンを始めた。それに便乗した角川春樹(当時角川書店社長)が1976年から横溝正史原作の一連の推理小説を東宝、東映で映画化した。
松竹は、野村芳太郎監督自ら製作に名を連ねている。

当時、同じ時期に公開されていた市川崑監督による東宝の「石坂金田一シリーズ」では、2ヶ月前の1977年8月に第3作『獄門島』が公開されており、TV ドラマでも1977年4~10月に「古谷金田一」による連続ドラマシリーズ(第1シーズン)が放送されているという盛況ぶりだった。

横溝正史は現兵庫高校、現大阪大学薬学部を卒業して英語の読み書きは堪能な人であったが、戦後になって外国かぶれする時代に一人反発し、古い日本の因習の中で起きる殺人事件を描いた。尚、八つ墓村に於ける鍾乳洞殺人事件という発想は、戦前に横溝正史が翻訳した海外小説を元にしている。

横溝正史が創り上げた「名探偵・金田一耕助」は日本で最も多くの俳優が演じたキャラクターの一人だろう。映画だけに限っても、石坂浩二以外に片岡千恵蔵、池部良、高倉健、中尾彬、渥美清、三船敏郎、加賀丈史、豊川悦司らそうそうたる俳優が演じている。 作品の数からいえば、一番多いのは片岡千恵蔵の7作品(『三本指の男』、『獄門島』、『獄門島 解明編』、『八ツ墓村』、『悪魔が来りて笛を吹く』、『犬神家の謎 悪魔は踊る』、『三つ首塔』)で、石坂浩二の6作品(『犬神家の一族(1776年)』、『悪魔の手毬唄』、『獄門島』、『女王蜂』、『病院坂の首縊りの家』、『犬神家の一族(2006年)』)を上回っている。 二枚目スターが居並ぶなかにあって異色の金田一耕助と言えそうなのが、1977年版『八つ墓村』における渥美清だろう。このキャスティングについて、横溝正史は小説家・小林信彦との対談で興味深い発言をしている。

「結局、探偵というものは狂言回しでしょう。主人公は別にいるんですワ。犯人か被害者かどちらか、それが二枚目になるでしょう。二枚目を二人出されちゃ困る。だから金田一、やっぱり汚れ役にしてほしい、松竹(おたく)ならやっぱり渥美清だろうって、ぼく、そう言ったことがあるんですけどね」(角川書店「野生時代」1975年12月号)

 つまり、横溝正史が考える金田一耕助は、石坂浩二や古谷一行タイプではなく、決して二枚目ではない渥美清だったのである。対談相手の小林信彦によれば、渥美清自身はピーター・フォーク演じる刑事コロンボが頭にあったらしい。渥美清もピーター・フォークも、従来の名探偵にはない人間臭さや野暮ったさに妙味がある。映画でありながら、映像ではなく、セリフだけで観客に情景を想像させ、感情を呼び覚ますという点では、渥美清に勝る役者はいない。メリハリのきいた巧みな語り口や口跡の良さは『男はつらいよ』でおなじみである。この静かで、説得力のある言葉の力が『八つ墓村』には不可欠だったのだ。『八つ墓村』で金田一耕助を演じるのは、やはり渥美清しかいない。

とは言え、野村芳太郎監督の演出に納得できない萩原が渥美に、
「おかしいと思いませんか?渥美さん」と訴えたところ渥美は、
「この映画は最初っから おかしいんだよ。だってさ、俺が金田一耕助やってんだから」と答えた逸話もある。

日本ミステリー界の巨星・横溝正史による金田一耕助シリーズ『八つ墓村』(1949年3月~51年1月連載)の4度目の映像化。因みに『八つ墓村』は2012年11月時点では最新作となる2004年10月放送の TVスペシャルドラマ版(主演・稲垣吾郎)まで「9回」映像化されており、この回数は映像化された金田一耕助シリーズの中でも最多となる(次に多いのは映像化「8回」の『犬神家の一族』)。一方、あまりにも質・量ともに「頭からしっぽの先まで」内容が凝縮して詰め込まれたミステリー作品であるが故、「原作に忠実な映像化」がそうとう難しいものである事も事実。まして『八つ墓村』は金田一耕助シリーズのなかでも少々毛色の変わった作品で、原作小説は事件に巻き込まれる青年(映画では萩原健一が演じている)の視点で綴られており、金田一耕助の影が薄いため、更に映画化を難しくしている。だからなのか、監督・野村芳太郎、脚本・橋本忍のコンビはこの映画を単なる謎解きミステリーではなく、オカルト色の濃い映画に仕上げている。70年代は『エクソシスト』や『オーメン』といったオカルト映画がブームになった時代でもあった。曝し首にされても大きく目を見開く落ち武者、流行語にもなった「祟りじゃ」の言葉を毒づく老婆、さらに頭に懐中電灯を巻きつけ、刀と猟銃で村人32人を惨殺するシーン。着物の裾を乱して猛スピードで走る姿、などのビジュアルは脳裏から離れない。しかし、本当に怖いのは、金田一が語る、事件の背景、犯人と関係者の家系を遡ることで明らかになる戦慄の事実。調査すればするほど、犯人の思惑をはるかに超えた祟りや怨念の存在を認めざるを得なくなる恐怖がある。

この作品の本編時間は151分。これは、これまで世に出てきた金田一耕助もの横溝作品映像化の中で歴代最長。市川崑の「石坂金田一シリーズ」でも、この2時間半をこえるものは無い(例外として、1949年に「前後篇2部作」というかたちで公開された映画『獄門島』は計169分。1977~78年に2シーズン放送されて いたTVの「横溝正史シリーズⅠ、Ⅱ」は、1回1時間分の連続ドラマだったため、全回分あわせれば3時間以上の長編作品が7作。最長は『悪魔の手毬唄』(1977年)の284分)。

主な変更点としては、時代設定が原作の「1948年」ではなく「1977年現代(当時)」に修正され、原作での重要登場人物である「里村兄妹」「麻呂尾寺・蓮光寺・慶勝院の僧たち」「新居医師」らがカット。原作では八つ墓村の有力者一族は「田治見」なのだが、本作では「多治見」表記になっている。更に、若い里村典子という事実上のヒロインの存在自体をカットなどがある。

1978年に放送された古谷金田一のほうの『八つ墓村』は「犯人の設定」が原作から大幅にアレンジされているため、こっちもこっちで原作からは距離を置いた映像化作品になっている。

原作に最も忠実な映像化作品は、1991年7月放送の古谷一行による TVスペシャル版の『八つ墓村』ではないだろうか。登場人物も里村兄妹以外は概ね出そろっていたし、「寺田辰弥の実の父」のエピソードをちゃんと扱っていた。

本作は、金田一耕助が登場する映画の中では歴代最高の「配給収入19億9千万円」を記録しており、配給収入は、興行収入のうち映画会社の取り分約60% なので、『八つ墓村』の「興行収入」はだいたい「32億円」ということになる。『犬神家の一族』の配給収入は「13億円」。結局、シリーズ化されることもなかったこの「渥美金田一の八つ墓村」が、劇場版に於ける最大のヒットと言える。

余談だが、ビルのフロアで歓談しているシーンで、ビル窓の外に肘から二の腕までが柳の枝が揺れるように現れる。明らかに立っている人の手の動きであり、どう見ても作業員の腕ではなく、女の腕のようだ。窓サッシ部には隠れられるスペースもなさそうなのに。

……と言うオカルティックな噂もある。

ヒットの要因は幾つかある。

「砂の器」(1974)をヒットさせた野村芳太郎監督の新作と言うことへの期待感。超大作の一本立て興行とし、宣伝も含め、松竹の力の入れ方も半端では無く、前年度の「犬神家の一族」とテレビの横溝正史シリーズ第一期(1977年4月〜10月)のヒット(特に古谷一行のテレビシリーズの高視聴率の影響は大きかった)により、金田一ブームが最高潮になりつつあった時期だった事や、「祟りじゃ~!」と言うキャッチコピーがテレビで頻繁に流れ、大衆の好奇心を煽った事、期待された「スター・ウォーズ」の公開が1年先に延期され、洋画にこれと言った決定打がない(地味だった「ロッキー」が当たったくらいですから)所に、角川映画や「宇宙戦艦ヤマト」「幸福の黄色いハンカチ」など、邦画が一瞬活気を取り戻したかのように思えたムーブメントに「八つ墓村」も乗っかった事、寅さんのイメージが確立されつつあった時期の渥美清が、どう金田一を演ずるかと言う大衆の好奇心の大きさ、などが要因として挙げられるのではないだろうか。

「犬神家」と「八つ墓村」は洋画系劇場を使い、特に「八つ墓村」は、今のシネコン方式に近い、最初から全国拡大100館以上ロングラン上映であり、そのプリント代だけでも大予算をかけていた筈。更に「八つ墓村」は同時に邦画系番線でも公開、「犬神家」の方は、洋画系ロードショーの後、一般邦画番線に降りて来ると言う興行の仕方で、両方とも「利益率の高い都市部のロードショー」で当て、しかも上映期間も長かったため、配給収入が大きかった(当時のロードショー料金は1300円)。「八つ墓村」の動員は、下番館まで合わせると350万人くらいだろうと、当時のキネ旬決算号には書かれている。一方、「悪魔の手毬唄」と「獄門島」以降の作品は、普通の邦画のプログラム・ピクチャーとして、邦画系の番線だけで公開しており、当時は「ブロック・ブッキング」と言うシステムだった為、3〜4週間上映すると、次の作品と入れ替え、フィルムは2番館、3番館と言った下番館に移されていた。繁華街などではない下番館などになると、料金もどんどん安くなり、配給収入も伸びなくなって行く。「本陣殺人事件」などは、さらに上映館が限定される低予算のATG作品。配給収入が低いのは当然だった。

翌年以降の金田一ものは、さすがにマンネリ化し、大作感もなくなってきたため、大衆が徐々に離れて行ったのだろう。

角川文庫が映画『犬神家』でブームを作ったのではなく、すでに70年から74年にかけて、横溝ブームが来ていた。まず、1969年から70年くらいに、本格ミステリー小説(横溝作品も含め、他作家のジャンル物)の再評価が始まる。それに合わせて講談社、角川、春陽等の出版社から相次いでいわゆる『金田一物』が出版され300万部を超えるヒットになって行った。その後、1975年9月27日公開のATG映画『本陣殺人事件』が低予算作品にも関わらず大ヒット。
文庫も勢いが止まらず、売り上げが1000万部を突破した頃、76年に『犬神家の一族』が公開。そして、77年の『八つ墓村』と続く。その後、TV版の『横溝正史シリーズ』が始まり、ブームに加速度がついていく。

大きな流れが出来ていたのだろう。

本来は角川は第一作目を『八つ墓村』で考えていたが、メディアミックスを優先するあまり、脚本の完成を待てず、自ら出資して『犬神家』を手掛ける。その後、松竹が満を持して『八つ墓』を世に放つ。

もう、流れとしか言いようがない。
『悪魔の手毬唄』が77年4月2日に、『獄門島』が77年8月27日に、そして10月29日に『八つ墓村』公開され、その後は徐々にブームも下火になって行く。

他に明確な理由は思い当たらない。
本作が他作品に抜きん出て評価されたからではない。ブームとはそういうものだ。