全てのSF映画はここから始まった

メトロポリス

映画メトロポリスは、1927年に制作されたドイツの モノクロサイレントSF 映画で、監督はフリッツ・ラング、脚本は彼の妻、テア・フォン・ハルボウ。貧困の労働者階級、裕福な上層階級と、その反乱を描いた作品。この作品は2001年に、徹底した最新のデジタル技術による修復(原版フィルムの状態によってはアナログな手作業なども含む)を施され、2002年に DVD として発売。また2010年には、更に新しく発見されたシーンを追加した完全復元版がブルーレイとDVDで発売されている。

修復版は、2001年にユネスコにより「人類の記憶と歴史に永遠に残すべき作品」として、映画作品としては最初に世界記憶遺産に選ばれた。アーヘン大聖堂やヴュルツブルクのレジデンツ、あるいはバッハやベートーヴェンらの偉大なクラシック音楽作品にも比肩しうる、ドイツの生み出した人類の宝と云える。尚、映画の記憶遺産は、2005年にフランスがリュミエール兄弟の映画、2007年にアメリカがMGMのオズの魔法使い、2009年にカナダが1952年のアニメ映画・隣人が追随し、登録されているのみ。

原典版である 1927版は著作権も消失し、現在は人類共通の財産、パブリックドメインとして、デジタル化された高画質データが無料で配布されている。ドイツのウーファー社により首都ベルリンでガラ・プレミア公開され好評を博し、興行配給はアメリカのパラマウント社が名乗りをあげ、世界各国で上映され好評を博した。但し最初にプレミア上映された版は210分にも渡る大長編映画だったことで、ラングの手により150分ほどに再編集され、さらにパラマウント経営側から「上映回数 (客の回転率) が落ちてしまう」と、監督の了解を得ないまま、原典版のおよそ半分ほどの長さの114分ほどに再編集、いわゆるアメリカ版として公開された。その後ウーファー社もこのアメリカ版を踏襲する形で全体をコンパクト化し、日本では2年遅れの1929年4月3日に松竹系で封切られたが、こちらは 104分と、更に短縮された版となった。

度重なる編集により、多くの版が存在し、またそれぞれの版も様々な事情で更新を受け、制作会社の倒産、第二次世界大戦の惨禍で貴重な資料やフィルムが散逸、消失、フィルム複製や映写技術などもまだ発展途上の時代の作品だったこともあり、現在では原版は永遠に失われ、文字通り失われた幻の超大作となっている。
 
ストーリーを眺めていると、支配者階級(資本家階級)と労働者階級との話し合いや解決は、糸口としての握手で象徴的に語られている。

サイレント映画特有のオーバーなりアクション、今となっては古典的ともいえる未来像など、21世紀の現在から見ると少々物足りない印象もあるかも知れないが、それは今日のSF映画 (日本のSFアニメなども含め) 殆ど全てに影響を与えている作品だけに、「どこかでみた映像だ」「どこかで見た造形だ」という印象を強く持つことだろう。しかしこの作品は90年近く前の作品で、どこかで見たというのは以前見た作品がこの映画の影響を受けていたからであり、これが最初、原点なのだ、と思い直せば、その先進性に驚きを感じる筈だ。

純真な処女性を持っていたマリアと、ぎこちない不自然な動き、淫靡で攻撃性、破滅性を持つロボットマリアとの二役を演じたブリギッテ・ヘルムの演技力も素晴らしい(ちなみにアンドロイドの着ぐるみに入っていたのも本人)。

テーマとしての支配階級と労働階級の二極分化とその宥和は、18世紀から19世紀にかけての機械化と、それに伴う産業革命、ヘンリー・フォード(Henry Ford/ 1863年7月30日~1947年4月7日)によるベルトコンベア式の大量生産方式、ヴァイマル共和政末期の超インフレなどと相まって、人間の労働や個々人の価値が大きく揺らいでいる1927年という時代からしたら、当然問うべきテーマだったのだろう。

 機械化と大量生産システムにより、輝かしい未来も見える一方、貧しい最下層の労働者の待遇は目を覆うものがあり、一部の知識層が外から見た時の輝きを(まがいものながら)まだ失ってはいなかった社会主義、ソ連の存在もあり、当時としては当たり前の危機感や焦燥感、願望を、ラングも受けていたのかも知れない。