居酒屋

ルネ・クレマン監督。原作はエミール・ゾラ。読んだことはない。19世紀のパリの裏町で洗濯屋を生業にする女性ジェルヴェーズが幸せになろうともがく一代記になってる。ルネ・クレマンの第一級の圧倒的描写力は必見だ。

冒頭の内縁の夫を寝取られたジェルヴェーズが、憎まれ口をきいた妹と共同洗濯場で取っ組み合いの喧嘩をする場面にまず圧倒される。女同士の取っ組み合いって言うと「幕末太陽傳」の南田洋子と左幸子を思い出すが、こっちのほうが数段上。じつに印象深い。終いには勝ったジェルヴィーズは相手のスカートをまくりあげてお尻をむき出しにして洗濯板でペンペン!ランチェが女と出て行ってしまい、子供と取り残されたジェルヴェーズは屋根職人クポーと知り合い結婚する。

この結婚式のシーンもまた印象深い。雨に降られて野外パーティが台無しに。しょうがないんでルーブルでも行くべ!とばかり、大の大人がぞろぞろと傘をさしてルーブル美術館へと向かう。彼らが大人しく芸術鑑賞できる筈もなく、「あっちにもっとエッチな絵があるぞ~っ」と一人が知らせに来るとみんなで「どれどれ、わぁ~っ」みたいな感じで民族大移動。中学生かよ(笑)。その絵を見て新婦であるジェルヴェーズが顔を赤らめたりすると、新郎クポーの姉が「生娘でもあるまいに!」とかイヤミを言ったりする。なんか描写が活き活きしている。みんな貧しいんだけど、結婚式の高揚感みたいなものが実に上手く表現されていて凄いと思った。

もう一つ凄いと思ったのが、自分で店を持つのが夢だったジェルヴェーズが洗濯屋を始めて少し軌道にも乗って余裕が出来て自分の誕生会を開く所。このパーティの描写が素晴らしい。誰がメインデッシュの鳥を切り分けるかで揉めたり、とにかく皆エネルギッシュでハイテンション。サラダの取り方ひとつでもガバッ、グォ~ッみたいな感じ。決して裕福とは言えない家庭のパーティだが、フランス人の食に対する考え方みたいなものが垣間見えて、品が無い野卑でいて猥雑な描写法、人間味に溢れ、圧倒されること間違いなし。特に切り分けられた鳥にむしゃぶりつくジェルヴェーズの表情と、それを優しく見つめる彼女に好意を持っている鍛冶屋のクジェの切り返しの素晴らしさ!彼の視線を感じたジェルヴェーズはクジェと見つめ合う。パーティの喧騒の中の二人だけの暗黙の了解。でもこの時もジェルヴェーズは鳥をむしゃぶり喰らうことをやめない。この辺のバイタリティにフランス映画の凄みを感じる。ジェルヴェーズが歌うシーンも、儚く、哀しく、そして美しい。たぶん若い時に観たら、とても受け入れられる作品ではなかったと思う。

男気を出したクポーは前夫ランチェを居候させる。こうして奇妙な現夫と前夫との同居生活が始まった。どうなるかは火を見るより明らか。ある日例によって飲んだくれて帰ってきたクポーに腹を立てて絶望するジェルヴェーズ。それを優しく慰めるランチェ。彼女を抱きしめたまま自分の部屋のドアを閉めるランチェ。それを物陰からジッと見つめる娘ナナ…。

『居酒屋』は、もとが庶子のマッカール家に生まれた女性ジェルヴェーズを主人公として、第二帝政時代のフランスの庶民の暮らしぶりや、資本と労働者との対立などを、感傷を交えずに淡々と描いている。淡々としすぎていて、主人公のジェルメーズが直面している運命の厳しさが、人間的な感情をはねのけるような冷たさを感じさせる。実際この映画は、原作の小説以上にドライな雰囲気を醸し出し、観客は心を洗われる事は無い。寧ろ暗澹たる気分にさせられ、早く忘れたいというような気持になるのではないか。

幸せな一時さえも思わず「絶対この後、何かあるな」と思ってしまう不穏さを含む。そしてそれは大体的中する。もう可哀相すぎて作者を怨みたくなる程である。これを映像化するとこうなる。うわぁ~やめて~、うわぁ~。

特に後半の転落人生はこれでもかという場面が延々と続き、正直辟易する。

特にラストシーンは救いがない。店を奪われ夫も死に全てを失ったジェルヴェーズは居酒屋で抜け殻のようになってしまう。娘のナナは、母のそんな姿を目の当たりにして、リボンを首に巻き、男の子たちの関心を惹くと、その男の子達の輪の中に飛び込んで行く。彼女の行く末を暗示する何とも言えないラストシーン。そして続編の「女優ナナ」と繋がって行く……。

原作のエミール・ゾラは、自然主義の文学者に位置付けられている。ギュスターヴ・フローベールのいわゆる写実主義の流れを汲み、写実主義をもっと推し進める形のものである。「現実をありのままに描写する。それはあたかも自然科学のような厳しい冷徹な視線で」をモットーとする文学であり、ゾラのルゴン(ルーゴン)・マッカール叢書において最もポピュラーな同名小説の映画化。フランス自然主義で有名なこの作家、一言で言えば「酷い、惨い」作品ばかり書いていた。日本の自然主義とは違って、単に自然科学的、生物学的に人間を描いている。

『種の起源』等に影響を受けたであろうゾラは、「人間は遺伝子と環境によって運命を左右されんねん!」と主張。それは一貫して叢書の中に表れている。この作品は、新聞連載という形で始まったが、読書界の拒絶反応が大きくて、連載を中止せざるを得なかった程。

映画が描いているのは、男運の悪い一人の女の半生。この女ジェルヴェーズは、男運が悪いために損をしてばかりいるが、それは他人のせいばかりではない。ジェルヴェーズ自身に自分を不幸にさせるようなところがあるのだ。ジェルヴェーズは、自分の意思を明確に言うことができない、その結果いつも他人の言うことや物事の成り行きに任せて、主体性のない生き方をしている。だから、しょっちゅう石に蹴躓いて、転んでばかりいるようになるのだ。そんな冷たい、突き放したような視線から、この女の半生が描かれているのである。

ジェルヴェーズ( Maria・Schell)は、三人の男たちに運命を翻弄される。一人目はランティエという女たらしの男で、ジェルヴェーズはこの男の子を三人も生んだというのに、正式の結婚もせずに、逃げられてしまう。この男は、映画の後半で再びジェルヴェーズの前に現れ、またもや彼女を食い物にする。

二人目の男はクポーという名の、気が良いが意思の弱い男だ。クポーはジルヴェーズが子持ちであることを承知の上で結婚、ナナという女の子まで授かるが、ふとしたことで大怪我をしたために、働けなくなり、それが切っ掛けとなって人が変ってしまう。毎日呑んだくれて暇潰しをするばかりか、二人の前に現れたランティエを家に入れたりする。挙句の果ては、ジェルヴェーズが客から預かった品を質入れするようなこともする。そんなクポーにジェルヴェーズは絶望するが、かといって事態を打開しようという気力はない。クポーはやがて発狂し、それがもとでジェルヴェーズの人格も破壊されることとなる。

三人目の男はグジェと言う名の謎の男である。この男はジェルヴェーズに好意を抱いており、なにかと彼女を支えてくれる。ジェルヴェーズが念願のクリーニング店を始めるに当たり、資金を提供したのも彼だ。彼は、社会の矛盾に敏感で、労働者が虐げられていると感じ、労働運動に身を投じるようになる。自分の勤務している会社の労働者たちを組織してストライキを試みるが、それが違法だと告訴され、懲役刑に付せられる。そのグジェに、ジェルヴェーズも好意を抱いているが、それが恋なのか、それとも単なる好意なのか、自分でもわからないのだ。そのうちグジェは、ジェルヴェーズの長男とともに、新しい働き場所を求めて地方に旅立っていく。

この三人の男に、ヴィルジニーという性悪女が絡んできて、ジェルヴェーズを酷い目に遭わせようとする。彼女はランティエと駆け落ちした女の姉なのだが、ランティエが妹と別れた後、彼を手引きしてジェルヴェーズに引きあわせる。彼女は、ジェルヴェーズに対して遺恨を抱いており、何とか復讐してやりたいとかねてから思っていたのである。その復讐劇に、ランティエも一枚加わる。

これらの人間たちと関わりながら、ジェルヴェーズの不幸な半生が展開していく。その半生の中には幸福な瞬間がない訳でもなかったが、概ね意に染まない、辛い事の連続だった。その挙句、亭主のクポーが発狂し、自分の店をヴィルジニーに取られてしまったジェルヴェーズは、かつて男たちがたむろしていた居酒屋ラソモソワール(L'assommoir)に入りびたりになる。小説は、絶望したジェルヴェーズが孤独のうちに死んで行く所まで描いている。

大元は同じ遺伝子(神経症持)を受け継いでいるが、ルゴン家は嫡出子、マッカール家は庶子。その違いが様々な相違を生み出し、宿命となって人を壊していく。そういう主義の元に書かれた小説が『居酒屋』であり、ゾラ自身は下層の労働者階級への綿密な取材を元にこの小説を執筆しており、ゾラの露悪的趣味だけではなく、「現実をありのままに描く」という自然主義のモットー故、読後感は寒々しい。

だがそれでも『居酒屋』は文学的傑作だ。相当タフな精神と、さまざまな段階の人間世界への許容量がなければ、また、社会への問題意識と相当深い道徳感情がなければこういう作品は描けない。ヨーロッパ文学は、こういう点で、懐の深さが下地にある気がする。

また、日本の文学者はヨーロッパから自然主義という考え方を輸入したが、ゾラのような深い社会的な問題提起を避け、個人の恥ずかしい面を曝け出す「現実をありのままに描写する」ものにした。それが後の私小説というジャンルに発展する。田山花袋の『蒲団』のような作品群だ。

ゾラが『居酒屋』の序文で、「この作品は私の作品の中で最も道徳的である」と言っているが、本当にこの作品は「道徳的」だと思う。この作品を読んで(あるいは映画で観て)、人間への見方が変わり、懐が広くなったような気がするし、人間を深く捉える事が出来るようになったという知的上昇感を覚える。

ヨーロッパ・モノクロ映画ならではのダークな雰囲気漂う傑作の一つだ。