たまたま藤山一郎氏の丘を越えてを調べていたら、こんな藤山一郎批判+矢野顕子賞賛記事を発見。しかし内容はとんでもないものでした。

(前略)
藤山が激怒した矢野の歌とは、『ジャパニーズ・ガール』に収録されていた「丘を越えて」であった。

「丘を越えて」は、「青い山脈」などと並んで藤山によって歌われた、日本の歌謡史に於ける代表曲である。もともと東京音楽学校(現・東京芸術大)出身の藤山は、歌詞をハキハキと明瞭に歌う、ドイツ流のクラシックの理論に基づく<正統的>な唱法、「唱歌的歌唱法」を実践してきた。60年もの長きに渡って歌手生活を送った藤山のヒット曲は、前出のもの以外にも数多いが、たしかに彼の歌は例外なく言語明瞭・元気ハツラツ・ファイト一発オロナミンCである。

→ファイト一発オロナミンC唱法とは面白い表現ですが、全部がそうでは無く、一部の曲だけですよ。言語明瞭は歌手として基本中の基本です。出来てない方がおかしいのでは?

しかし、西洋のクラッシック音楽至上主義のこの“正統派歌謡歌手”の唱法は、ロック、フォーク、ブルースなど、欧米のポピュラー・ソングの流れを汲んだ<歌謡曲=非正統な音楽>を物心ついた頃より聴いて育ったぼくのような世代にはピンとこない。むしろ藤山の<ファイト一発唱法>にこそ、違和感を感じたのは正直なところだ。

→世代が違えば受取方が異なる?私は藤山一郎世代ではありませんが、矢野顕子さんの歌い方は合わない気がします。

矢野が歌う「丘を越えて」が<ファイト一発>ではないことは確かだ。彼女の唱法は“大陸的な雰囲気”を持ち、また<幽霊のよう>に不安定でもある。つまり、非常に<不健康的>あるいは<アブナイ>のである。

→不健康なアブナさって……娯楽として危険水域の話になってますが……。

さらに二番はあがた森魚とのデュエットである。あがた森魚は「赤色エレジー」の大ヒットで知られる、不健康的なフシギ個性を持ったシンガーだ。この歌のオリジネーターである藤山は、このヴァージョンが<ファイト一発>でないことに激怒したのだった。

→違うと思いますが。藤山一郎氏は、誰よりも、作曲の古賀政男氏を理解し、作曲意図も熟知されています。だからその世界観を破壊する唱法を否定しただけだと思います。この曲は元々ピクニックというタイトルだった経緯もあるので、暗く歌ったりアブナく歌ったりするのは、違和感があり、それに過敏に反応されたのではないでしょうか。

歌手がテレビ番組に出演して歌をうたう場合は、まず各テレビ局が独自に行なうオーディションを受け、合格しなければならないのが通例である。 
76年、新人・矢野顕子も「丘を越えて」を引っ提げてNHKのオーディションに臨んだのだ。ところが矢野にとって運が悪かった(?)のは、藤山がNHKオーディションの審査員の一人だったことだ。「言葉を大切にうたう」を座右の銘とする藤山は、矢野の「丘を越えて」を聴いて、“歌詞の健全なイメージを著しく壊す歌い方”と批評、その場でこの歌の<正しいうたい方>の指南までしたといわれる。

→正しい歌い方指南は少々やり過ぎの感もありますが、藤山氏の指摘は間違ってはいません。

矢野のこのヴァージョンは、NHK放送文化賞の受賞者であり、日本歌謡界の重鎮であり、この歌のオリジネーターでもある藤山の気を害したことは明らかだった。普通、テレビ局のオーディションは「形式的」なもので、よほどのことがない限り不合格になることはないという。しかし彼女のオーディションの結果は「不合格」。新人・矢野顕子がNHKの歌番組に出演することはなかった。藤山のNHKに対する影響力を窺わせるエピソードである。

矢野の歌う「丘を越えて」が原曲のイメージを壊しているのかどうかは、聴く人間の世代、嗜好によってまっぷたつに分かれるところだろう。たしかに藤山の批評は、彼の原曲に馴染んだ世代のひとにとってはもっともなことかもしれない。しかし、藤山のいう<正統的なうたい方>がこの歌に対して妥当かどうかは、おおいに疑問の残る点である。

→何故疑問が?さっきも書きましたが、この歌のイメージピッタリの歌い方だと思います。他の歌い方があるとするなら、作詞家、作曲家、編曲家、歌手、この歌のファンの全員を納得させられる唱法でしょう。

<正統的な唱法>という根拠がクラシックの発声法に基づいていることだとするならば、まずこの歌が<歌謡曲>であることに着目せねばならないからだ。歌謡曲は大衆の音楽であり、クラシック音楽の基本ルール<楽典>に縛られない“身の軽さ”を持っている。楽典が非常に完成された音楽ルールであることは否定しないが、世界中には楽典でははかれない音楽は数多い。民族音楽もジャズも同じ大衆の音楽だが、やはりクラシックのルールでは解釈しきれないものだ。そしてこの歌が大衆の音楽<歌謡曲>であることは疑いのない事実だし、矢野のこの歌に対するアプローチも<歌謡曲>であることを前提にしている。従って、藤山の批評が<正統的な唱法>を前提としていたならば、このヴァージョンに対してそれが的を得ていたかどうかは疑わしい。

→誰も正当な歌い方だから駄目なんて言ってませんが?ましてやクラシックの唱法こそ正当であり、他は異端なんて、藤山氏は生涯に於いて一度も発言していません。寧ろ、歌に合わせて様々な唱法を実践されています。例えばクルーン唱法とか。更には、発声法まで曲毎に変えておられます。

こうして、<NHK>という放送界と、<藤山一郎>という歌謡界の“権力”が結びつくことによって、アッコちゃんの「丘を越えて」は“けしからんうたい方”との烙印を押されてしまったのであった。だが、<正統的>な歌い方など、最初から眼中に無かった若いリスナーには、この不健康な<不思議だいすきヴァージョン>は歓迎され、矢野はポピュラー界で一目置かれるミュージシャンとしてのポジションを確保したのであった。

→それは、そういう歌い方が好きな人に受け入れられただけで、世代で受け入れられた訳ではないと思います。

藤山一郎はその後、91年に勲三等瑞宝賞、92年には国民栄誉賞を受賞、歌謡界の重鎮の地位を保ったまま、93年に死去した。一方、矢野は藤山に批判された<不健康な不思議唱法>でミュージシャン活動を続け、現在も変わらぬ個性でヒット曲を連発している。

→ジャンルも世代も時代も違うのに比べられてもね。洋食と和食を比べるようなもの。

いやはや見当違いも甚だしいですね。この作者は藤山一郎氏の事をどれだけ理解しているのでしょう。

藤山一郎氏、矢野顕子氏、どちらも素晴らしい歌手です。藤山氏が矢野氏を怒ったのは、それだけ認める部分があったからだと思います。取るに足らない有象無象なら、反応すらしないでしょうし、楷書歌手とも呼ばれ、蛍の光の出だしのアクセントが日本語のアクセントと違うと言う理由で絶対歌わず指揮のみに徹したくらい他人にも自分にも厳しかった藤山氏にとっては耐えられ無かったのでしょう。矢野顕子氏を否定したのではなく、丘を越えての歌唱意図を伝えたかっただけでしょう。まぁ生粋の江戸っ子の藤山氏ですから、言い方は荒かったかも知れませんがね。

藤山 一郎(1911《明治44》年4月8日~1993《平成5》年8月21日)。

本名は増永 丈夫(ますなが たけお)。本名ではクラシック音楽の声楽家、バリトン歌手として活躍。

東京音楽学校(後の東京藝術大学音楽部)首席卒業し、学校で培った正統な声楽技術・歌唱法・音楽理論とハイバリトンの音声を武器にテナーの国民的歌手・流行歌手として活躍。

1930年代から1940年代にかけて『酒は涙か溜息か』『東京ラプソディー』・『丘を越えて』・『青い山脈』『長崎の鐘』など多数のヒット曲を歌った。理論・楽典に忠実に歌ったことから正格歌手と呼ばれ、その格調の高い歌声は「楷書の歌」と評された。また、作曲家・指揮者としても活躍。

1992年(平成4年)、スポーツ選手以外では初めて存命中に国民栄誉賞を受賞した。元参議院議員の加納時男は甥。

藤山一郎は、東京府東京市日本橋区日本橋蛎殻町(現在の東京都中央区日本橋蛎殻町)に、同区日本橋長谷川町(現在の東京都中央区日本橋堀留町)のモスリン問屋・近江屋の三男(5人兄弟の末っ子)として生まれた。父の信三郎は近江屋の番頭で、母のゆうは店主の養女であった。

長女恒子、長男正夫、次男文夫、次女八千代、そして丈夫。全て四歳違い。

幼少期の藤山は、家業が順調であった上、母のゆうが株式投資の収益で日本橋区一帯に借家を建て多額の家賃収入を得ていたことから、経済的に大変恵まれた環境にあった。何しろ使用人が三十人近くいたそうだ。

藤山は幼少期から音楽家としての資質を育むのに適した環境の下で育った。母のゆうは花街から聞こえる三味線に対する反発(夫が時折柳橋の花街通いをしていた為か)から、八千代にピアノを習わせた。

藤山一郎は一年ほどで東華幼稚園から、姉、恒子の嫁ぎ先の御茶ノ水近く、女子師範(現在の御茶ノ水女子大)付属幼稚園に転入した。幼稚園が終わると親戚の作曲家・山田源一郎(藤山の姉・恒子の夫は山田の甥)が創立した日本女子音楽学校(現・日本音楽学校)に足繁く通い、賛美歌を歌ったり、オルガンやピアノの弾き方、楽譜の読み方を教わった。また、家族に連れられて隅田川を往復する蒸気船に乗って浅草に遊びに行き、物売りの口上や下町の歯切れの良い発音を耳にした。藤山曰く、後年発音の歯切れの良さが評価されたことには幼少期に浅草で経験したことの影響があった。

1918年(大正7年)春、慶應義塾幼稚舎に入学。この時期の藤山は楽譜を読みこなせるようになっており、学内外で童謡の公演に出演した。幼稚舎の音楽教師・江沢清太郎の紹介で童謡歌手となり、『春の野』(江沢清太郎作曲)などをレコードに吹き込んだ事もある。ただし江沢は「童謡歌手は大成しない」という考えの持ち主で、その勧めにより在学中の一時期は歌をやめ、楽典・楽譜を読みピアノ・ヴァイオリンを修練することに専念した。

学業成績を見ると、唱歌が6年間通して10点中9点以上でその他の教科もすべて7以上であった。

1924年(大正13年)春に慶應義塾普通部に進学した藤山は、同校の音楽教師を務めていた弘田龍太郎(東京音楽学校助教授)にピアノを習い課外授業に参加するなど音楽に励む傍ら、ラグビー部に入部して運動にも運動にも打ち込んだ。3・4年時には全日本中等ラグビー大会で優勝を経験している。

この時期の藤山の学業成績を見ると、音楽と体育以外は悪く、卒業時の学内順位は52人中51人であった。

慶應普通部在籍時の1927年(昭和2年)、慶應の応援歌『若き血』がつくられたとき、早慶戦に向けて普通部に在学中の藤山が学生の歌唱指導にあたった。

藤山は上級生でも歌えない者はしごいたため、早慶戦が終わった後、普通部の5年生に呼び出され、脅され殴られた。それ以来、藤山と『若き血』の付き合いは長い。

慶應義塾在籍中、藤山は福澤諭吉が説いた奉仕の精神を身につけた。このことは後にこのことは後にロータリークラブやボーイスカウトに協力し、福祉施設に慰問を行うことに繋がった。

慶應義塾普通部を卒業後の1929年(昭和4年)4月、当時日本で唯一の官立の音楽専門学校であった東京音楽学校予科声楽部(現・東京藝術大学音楽部)に入学。当時は「歌舞音曲は婦女子のもの」という風潮が強く、声楽部に入学した学生の中で男は藤山一人であった。

入学試験の口頭試問で音楽をやる理由を問われた藤山は「オペラ歌手を目指します」と答えた。

藤山は予科声楽科で30人中15番の成績を修め、本科に進学した。

1931年(昭和6年)2月には「学友演奏会」(成績優秀者による演奏会。土曜演奏会とも)に出演し、歌劇『ファウスト』より「此の手を取り手よ」、歌劇『リゴレット』より「美しの乙女よ」の四重唱にバリトンで独唱するなど順風満帆の学生生活を送っていたが、音楽学校生活進学後間もなく世界恐慌の煽りを受けた昭和恐慌の影響で実家のモスリン問屋の経営が傾き、3万8000円の借金を抱え廃業した。

藤山は家計を助けようと写譜のアルバイトを始めたが収入が少なく、レコードの吹込みの仕事を始めるようになった。これは校外演奏を禁止した学則58条に違反する行為であったため、「藤山一郎」の変名を用いることにした。

名前の由来は、上野のパン屋・「永藤」の息子で親友・永藤秀雄(慶応商工)の名を使って藤永にし、一郎と続け、「藤永一郎」としたが、本名である増永の「永」が入ることで正体がばれることを恐れた。そこで「富士山」なら日本一でいこうと「永」を「山」にして、芸名を藤山一郎にした。この変名はわずか5分のうちに生まれた。

藤山は1931年から1932年にかけておよそ40の曲を吹込んだ。代表曲は古賀政男が作曲し1931年9月に発売された『酒は涙か溜息か』で、100万枚を超える売り上げを記録した。塩沢実信によると、当時の日本にあった蓄音機は植民地であった台湾や朝鮮を含めおよそ20万台で、「狂乱に近い大ヒット」であった。

この曲の吹込みで藤山は、声量を抑え美しい共鳴の響きをいかし、声楽技術を正統に解釈したクルーン唱法を用い、電気吹込み時代のマイクロフォンの特性を効果的に生かした歌唱によって、憂鬱さとモダニズムが同居する世相を反映させようとする古賀の意図を実現させた。

同じく1931年に発売された古賀作曲の『丘を越えて』もヒットした。『丘を越えて』はクルーン唱法ではなく、「マイクから相当離れた位置で、メリハリをつけて、あくまでも綺麗にクリアーに、声量を落とさないで、しかも溢れさせないように歌う」歌唱表現で、古賀メロディーの青春を高らかに歌いあげている。

『丘を越えて』のヒットによって藤山と古賀はスターダムにのし上がった。

歌のヒットと同時に藤山一郎という歌手への注目が巷間で高まり、世間の関心が集まるようにもなった。

藤山は学校関係者に歌を聴かれて正体が発覚することを恐れ、アルバイト料が売上に関係なく1曲あたり15円ときめられていたことからレコードが売れないよう願ってさえいた。

古賀と関係の深かった明治大学マンドリン倶楽部の定期演奏会にゲスト出演した藤山は舞台の袖から姿を隠して歌い、観客が不満を訴える騒ぎとなったこともある。

そんな中、東京音楽学校宛に「藤山一郎とは御校の増永丈夫である」という内容の投書が届き、学校当局は藤山を問い質した。

藤山は「先生は作曲をするなどして学校の外で金を稼いでいるのに、生徒が学費のために内職するのを責めるのは不公平だ」と反発したためあわや退学処分ということになった。

しかしハイバリトンの声楽家として藤山を評価していたクラウス・プリングスハイムが退学に反対し、慶應義塾普通部時代から藤山をよく知る弘田龍太郎・大塚淳・梁田貞も学業成績の優秀さやアルバイトで得た収入をすべて母親に渡していることを理由に擁護に回った結果、今後のレコード吹込み禁止と停学1か月の処分に落ち着いた。

しかも、その1か月は学校の冬休みにあたり、実質的な処分は科されなかった。

なお、この時藤山はまだ吹込みを行っていなかった『影を慕いて』を既に吹込み済みであるとして学校にリストを提出し、発行を可能にした。停学が解除されると藤山はレコードの吹込みをやめ、学業に専念した

1932年(昭和7年)、藤山は東京音楽学校奏楽堂で上演された学校オペラ『デア・ヤーザーガーDer Jasager(「はい」と言う者)』(クルト・ワイル作曲)の主役(テナーの少年役)を好演し(東京音楽学校は「風紀」を理由に舞台上演のオペラを禁止していたが、この上演のみ例外で舞台上演された)、日比谷公会堂でプリングスハイムの指揮でワーグナーのオペラ『ローエングリン』のソリストを務めている。

ヴーハーペーニッヒ、マリアトールら外国人歌手と伍してのバリトン独唱は期待のホープとして注目された。 

1933年(昭和8年)3月、藤山は東京音楽学校を首席で卒業した。『週刊音楽新聞』は卒業演奏におけるオペラ『道化師』のアリア・『歌劇密猟者より』の独唱を取り上げ、東京音楽学校始まって以来の声楽家になるのではないか評した。

藤山はレコード歌手になって実家の借金を返済したいという思いが強く、卒業直後にビクターに入社し、同社の専属歌手となった。

ビクターは前年の春から安藤兵部会社顧問を通じて藤山に接触し、毎月100円の学費援助を行っていた。『酒は涙か溜息か』などのヒット曲がコロムビアから発売された曲であったことから藤山はコロムビア入社も考えたが、停学となって以来長らく接触が途絶えた上、ようやく交渉を開始してからも藤山が求めた月給制を拒絶したため、月給100円に加え2%のレコード印税支払いを約束したビクター入社を決めた。

だが、1933年3月、コロムビアから発売された『ローエングリン』には、藤山が本名増永丈夫で独唱者に名前を連ねている。藤山一郎のビクター入社の経緯について菊池清麿は、藤山のビクター入社は安藤兵部が獲得に動いたこと、当時ビクターには、橋本国彦、徳山環、四家文子ら東京音楽学校の先輩らが専属にいて、クラシックと大衆音楽の両立がしやすい雰囲気があったことを指摘している。

ビクターに藤山を奪われる形となったコロムビアは、作曲家の佐藤紅華と作詞家の時雨音羽をビクターから引き抜いた。

入社2年目までの藤山は東京音楽学校に研究科生として在籍してヴーハー・ペーニッヒの指導を受けており、作曲・編曲・吹き込みなどを行う傍ら学校やペーニッヒの自宅にも通った。

1933年4月には読売新聞社主催の新人演奏会に東京音楽学校代表として出演し、同年6月18日には東京音楽学校の定期演奏会(日比谷公会堂)に出演している。

クラウス・プリングスハイム指揮ベートーヴェンの『第九』をバリトン独唱。この時期の藤山は様々なジャンルの歌を歌っている。

公演をみると1933年10月に日比谷公会堂で「藤山一郎・増永丈夫の会」を催し、藤山一郎としてジャズと流行歌を、増永丈夫としてクラシックを歌い、美しい響きで声量豊かに独唱する増永丈夫とマクロフォンを効果的に利用したテナー藤山一郎を演じ分け、双方の分野の音楽的魅力を披露した。

レコードをみると、流行歌以外にクラシック(ワーグナー、シューマン)やジャズのレコードも出している。

ビクター時代の藤山は『燃える御神火』(売上187,500枚)、『僕の青春』(売上100,500枚)などがヒットしたが音楽学校在校中に吹込んだ古賀メロディーほどの大ヒット曲には恵まれなかった。藤山はこの時期を振り返り、「私の出る幕はなかった」、「レコードの売り上げ枚数をもって至上命題とするプロ歌手の壁は厚かった」と述べている。

ビクターのライバルコロムビアでかつて放ったヒットを凌ぐ事は出来なかった。

その一方、「官学出身者の厭味なアカデミズムを排し、下品な低俗趣味を避けたいとも考えていた。私はみんなが楽しめる音楽の紹介と、そのプレーヤーとして生きる」という思い「シューマンを歌う。欧米の名曲や民謡を歌う、そして、もちろん、流行歌も歌う」充実した日々であったと述べている。

ビクターとの契約期間は3年で満了を迎えた。ビクターは藤山との再契約を望んだが、当時コロムビアからテイチクに移籍していた古賀政男はテイチクへの移籍を促した。

藤山はテイチクのブランドイメージ(創業者が楠木正成に傾倒し、正成の銅像をレーベルマークにしたり正成にちなんだ芸名を歌手につけたりしていた)に抵抗を感じたものの、生家の経済的事情もあり、最終的には古賀と再びコンビを組むことの魅力が勝った。

念のためビクターとの契約期間満了から1か月を置いてテイチクへ移籍した。契約金は1万円であった(ちなみに、同時期の内閣総理大臣の月給は800円)。

1936年(昭和11年)、古賀が作曲した『東京ラプソディー』が販売枚数35万枚のヒットとなった。これにより藤山はB面の『東京娘』とあわせて2万1000円の歌唱印税を手にし、学生時代から抱えていた生家の借金を完済することができた。

PCLによって『東京ラプソディー』を主題歌にした同じタイトルの映画も制作され、藤山が主演した。『東京ラプソディー』と同じく古賀が作曲し1936年に発売された『男の純情』、翌年の『青い背広で』『青春日記』もヒットした。

藤山はこの時期に歌った曲の中から印象に残る曲として、『東京ラプソディー』とともに『夜明けの唄』(大阪中央放送局が1936年に企画した、有名な詩人の作品に歌をつける企画。国民歌謡、国民合唱と呼ばれた)を挙げている。

1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こったのをきっかけに国民精神総動員を打ち出した政府は、音楽業界に対し戦意を高揚させる曲の発売を奨励し、ユーモア・恋愛・感傷をテーマとした歌の発売を禁止する指示を出した。テイチクはこの方針に従い、藤山も『忠烈!大和魂』・『国家総動員』・『雪の進軍』・『駆けろ荒鷲』・『最後の血戦』・『歩兵の本領』・『愛国行進曲』・『山内中尉の母』といったといった戦意高揚のための曲を吹込むようになった。

テイチク時代の藤山一郎の人気は凄まじく、ポリドールの東海林太郎と並んで「団菊時代」を形成した。

テイチク時代の藤山はバリトンの声楽家というよりはテナー歌手としての流行歌に重点が置かれている。これについて当時、新聞記者だった音楽評論家の上山敬三は、「愛の古巣に帰ろう 男の純情などいう流行歌なんかやめちまえ、声がもったいない、クラシックに帰れ」と提言した。 

1939年(昭和14年)にテイチクとの契約期間が満了を迎えた。この時期には古賀とテイチクが方針の違いから対立しており、藤山は古賀とともにコロムビアへ移籍した。

移籍後藤山は『上海夜曲』や服部良一との初のコンビによる『懐かしのボレロ』を吹込みヒットさせた。

1940年には古賀作曲の『なつかしの歌声』もヒットしたが、音楽観の違いから、藤山は古賀と距離を置くようになった。

声楽家としては1939年に「オール日本新人演奏会10周年記念演奏会」(日比谷公会堂)でヴェルディのアリアをバリトン独唱し、1940年にマンフレート・グルリット指揮のベートーヴェンの『第九』(NHKラジオ放送)をバリトン独唱しテノールの美しさを持つバリトン増永丈夫の健在ぶりを示した。

増永丈夫の名義では松尾芭蕉の「荒海や佐渡に横たふ天河」という旅の叙情を主題にした国民歌謡『旅愁』の吹込みを行っている。

1941年(昭和16年)に太平洋戦争が開戦した。序盤は日本軍が優勢で、軍は新聞社に対し各地に駐屯する将兵に娯楽を与えるため慰問団の結成を要請した。読売新聞社が海軍の要請を受けて南方慰問団を結成すると、藤山はこれに参加した。

藤山には音楽の先進国であるヨーロッパへ渡りたいという思いが強く、ヨーロッパ諸国の植民地であった場所へ行けばヨーロッパの文化に触れることができるかもしれないという思いと、祖国の役に立ちたいという思いからこれに加わった。

当時日本軍は渡航直前の1943年(昭和18年)2月1日にガダルカナル島から撤退するなど、南方で苦戦を強いられていたが、藤山はそうした情報を正確に把握していなかった。

もし戦況を正確に把握できていたら南方慰問には出なかったであろうと述べている。

1943年2月、慰問団はボルネオ・ジャワ方面の海軍将兵慰問のため船で横浜港を出発。途中で寄港した高雄港では敵の潜水艦による魚雷攻撃を受け(かろうじて命中しなかった)、藤山は初めて戦局が内地で宣伝されているよりもはるかに緊迫したものであることを察知することになった。

3月にボルネオ島(カリマンタン島)バリクパパンに到着。ボルネオ島のほかスラウェシ島・ティモール島など、周辺一帯を慰問に回った。藤山は持ち歌や軍歌の他、地元の民謡を歌った。海軍士官が作った詞に曲を付け、歌ったこともある(『サマリンダ小唄』)。

藤山は帰国後すぐに海軍より再度南方慰問の要請を受け、11月にスラウェシ島へ向けて出発した。

藤山はヨーロッパの文化にさらに触れ、現地の民謡を採譜したいという気持ちから要請を承諾した。1回目の慰問での扱いは軍属で、藤山はこれに強い不満を覚えていたが、この時は月給1800円の海軍嘱託(奏任官5等・少佐待遇)としての派遣であった。

藤山の慰問団はスラウェシ島・ボルネオ島・小スンダ列島のバリ島・ロンボク島・スンバワ島・フローレス島・スンバ島・ティモール島などを巡った。このうちスンバ島は多数の敵機が飛び交う最前線の島で、慰問に訪れた芸能人は藤山ただ一人であったなお、小スンダ列島を慰問するにあたり、軽装で着任するよう要請された藤山は、愛用していたイタリア・ダラッペ社製のアコーディオンをスラウェシ島に置いたまま出発したが、同島に戻ることなく敗戦を迎えたため手放す羽目になった。これ以降藤山はジャワ島スラバヤで購入したドイツ・ホーナー社製のアコーディオンを愛用することになる。

1945年(昭和20年)8月15日、藤山はジャワ島スラバヤをマディウンへ向かい移動する車中で日本の敗戦を知った。藤山は独立を宣言したばかりのインドネシア共和国の捕虜となり、ジャワ島中部・ナウイの刑務所に収容され、その後ソロ川中流部にあるマゲタンの刑務所へ移送された。

1946年(昭和21年)、スカルノの命令によりマラン州プジョンの山村に移動した。そこには三菱財閥が運営していた農園があり、旧大日本帝国海軍の将兵が一帯を「鞍馬村」と名づけて自給自足の生活を送っていた。

鞍馬村滞在中、藤山は休日になると海軍の兵士だった森田正四郎とともに各地の収容所を慰問して回った。鞍馬村での生活は数か月で終わりを告げた。太平洋戦争終結直後から行われていた独立戦争においてインドネシアとイギリスとの間に一時的な停戦協定が成立し、日本人捕虜を別の場所へ移送した後、帰国させることになったためである。

藤山はリアウ諸島のレンパン島に移送された。この島で藤山はイギリス軍の用務員とされ、イギリス軍兵士の慰問をして過ごした。1946年7月15日、藤山は復員輸送艦に改装された航空母艦・葛城に乗って帰国の途についた

1946年7月25日、葛城は広島県大竹港に到着した。東京の自宅に着いて間もなくNHKがインタビューにやって来るなど、藤山の帰国はニュースとなった。藤山は8月4日にNHKのラジオ番組『音楽玉手箱』に出演したのを皮切りに、早速日本での歌手活動を再開させた。

1947年(昭和22年)に入ると、戦前派の歌手たちが本格的に復活の狼煙をあげた。藤山一郎もラジオ歌謡『三日月娘』、『音楽五人男』の主題歌・『夢淡き東京』、日本歌曲としても音楽的評価の高い『白鳥の歌』などをヒットさせた。

1949年(昭和24年)、永井隆の随想を元にした『長崎の鐘』がヒット。この歌を主題歌として映画『長崎の鐘』が制作された。永井隆と藤山の間には交流が生まれ、永井は藤山に以下の短歌(『新しき朝』)を送った。 

新しき朝の光のさしそむる 荒野にひびけ長崎の鐘 
藤山はこの短歌に曲をつけ、『長崎の鐘』を歌う際に続けて『新しき朝』を歌うようになった。

藤山は永井の死から8か月後の1951年(昭和26年)1月3日に行われた第1回NHK紅白歌合戦に白組のキャプテンとして出場し、『長崎の鐘』を歌った。

ちなみに藤山は1951年の第1回から1958年の第8回まで8年連続で出場するなど、歌手として計11回紅白歌合戦に出場している。

1949年7月、東宝は石坂洋次郎の小説『青い山脈』を原作にした映画を公開した。

この映画の主題歌として同じタイトルの『青い山脈』が作られ、藤山が奈良光枝とデュエットで歌った。

『青い山脈』は映画・歌ともに大ヒットした。歌は長年にわたって世代を問わず支持され、発売から40年経った1989年にNHKが放映した『昭和の歌・心に残る200』においても第1位となっている。

奈良光枝が1977年に死去すると、『青い山脈』は藤山ソロの持ち歌となった。 

1954年(昭和29年)、藤山はコロムビアの専属歌手をやめ、NHKの嘱託となった。その理由について藤山自身は「自らのクラシックとポピュラーの中間を行く音楽生活を充実させつつ、将来活躍できる新人に道を譲るのも悪くない」と考えたからだと述べているが、池井優によると、背景には、かねてから藤山がレコード会社の商業主義に対する疑問があり、さらに俳優が脚本を読んだ上で出演を決めるように、希望する歌を歌いたいという気持ちもあった。

1961年(昭和36年)には筑摩書房発行の『世界音楽全集』第13巻声楽(3)においてフォスター歌曲を独唱し、編曲も担当している。

1965年(昭和40年)、NHKの許可をとって出演した東京12チャンネル制作の『歌謡百年』がヒットした。

『歌謡百年』はベテランの歌手が昔懐かしい歌を歌うというコンセプトの番組で、後に『なつかしの歌声』とタイトルを変え、なつかしの名曲ブームを巻き起こした。

藤山は、クラシックの香りのするホームソングを主体にしていたが、、1958年以降は紅白歌合戦にも数回を除いて歌手としてではなく指揮者として出演していたが、再び歌手として人気を集めるようになった。

なお、紅白歌合戦には1950年の第1回から1992年の第43回まで、歌手または指揮者として連続出演した。

1972年(昭和47年)10月、初代会長であった東海林太郎の死去に伴い、日本歌手協会会長に就任した。

同協会は歌手の立場強化を掲げる任意団体であったが、藤山の会長就任を機に社団法人にすることが議論された。文化庁との折衝の結果、1975年(昭和50年)5月に協会は社団法人として認可された。社団法人となった日本歌手協会の立場は強化され、それまで作曲家と作詞家にしか支払われなかった著作権収入が著作隣接権として歌手にも支払われるようになった。

藤山は1979年(昭和54年)5月まで会長を務め、以後は理事を勤めた。藤山の死後、日本歌手協会はNHKと共催で追悼コンサートを開いた。

1992年(平成4年)5月28日、藤山は国民栄誉賞を受賞した。受賞理由は、「正当な音楽技術と知的解釈をもって、歌謡曲の詠唱に独自の境地を開拓した」、「長きに渡り、歌謡曲を通じて国民に希望と励ましを与え、美しい日本語の普及に貢献した」というものであった。

池井優によると、受賞を決定づけたのは1992年3月にNHKが放送したテレビ番組『幾多の丘を越えて - 藤山一郎・80歳、青春の歌声』である。

この番組を見た衆議院議員・島村宜伸が当時自由民主党の幹事長であった綿貫民輔に国民栄誉賞授与の話を持ちかけたことで政府が検討に入ることになった。また、NHKのアナウンサー出身の参議院議員でかつて古賀政男の国民栄誉賞受賞に尽力した高橋圭三も福田赳夫を通じて政府に働きかけを行った。

藤山は娘を通じて受賞を打診され、受託した。当初授賞式は4月25日に予定されたがこの時藤山は坐骨神経痛を患い入院中で、退院後の5月28日に延期された。授賞式会場の首相官邸に車椅子に乗って現れた藤山は中に入ると車椅子から降りて杖をついて歩き、東京音楽学校時代の恩師クラウス・プリングスハイムの指揮で声楽家増永丈夫として日比谷公会堂で独唱したベートーヴェンの『歓喜の歌』を伴奏なしで歌った。

数十年ぶりクラシック音楽の増永丈夫と大衆音楽の大衆音楽の藤山一郎を披露した。なお、スポーツ選手を除く国民栄誉賞受賞者の中では最初の存命中の受賞となった。

1996年に上野恩賜公園内に設置された「日本スポーツ文化賞栄誉広場」には国民栄誉賞受賞者の手形が展示されており、藤山のものもある。

なお藤山は国民栄誉賞以外にも勲三等瑞宝章(1982年春)、紫綬褒章(1973年)、日本赤十字社特別有功章(1952年)、NHK放送文化賞(1958年)、社会教育功労章(1959年)、日本レコード大賞特別賞(1964年)などを受賞(章)している。

1993年(平成5年)8月21日、急性心不全のため死去、同年8月14日放送の『第25回思い出のメロディー』(NHK)が最後のメディア出演となった。

死後、その功績から従四位に叙せられた。菊池清麿は藤山の生涯について、「芸術家としての人生が約束されながら、大衆音楽の世界で人気を博し国民栄誉賞を受賞するという稀有な人生だった」と評している。

藤山の遺品は遺族からNHKに寄贈され、NHK放送博物館の「藤山一郎作曲ルーム」に展示されている。

NHK以外にも、与野市の市歌「与野市民歌」を歌唱した縁で与野市にも遺族から遺品が寄贈され、与野市図書館(現・さいたま市立与野図書館)に展示されている。

藤山の墓は、静岡県の冨士霊園にある。墓碑には富士山の絵と漢字の「一」、ひらがなの「ろ」が刻まれており、あわせて「藤山一郎」と読むことができる。

また、藤山が作曲した『ラジオ体操の歌』の楽譜(2小節分)と歌詞も刻まれている。

藤山は奉仕を重んじるボーイスカウトの精神に共鳴し、ボーイスカウト日本連盟の参与を務めた。1971年(昭和46年)、第13回世界ジャンボリーが日本(静岡県富士宮市)で開かれた際にはテーマソング『明るい道を』の作曲を行った。1988年(昭和63年)にスカウトソングを収録したカセットテープが制作された際には録音に立ち会い、自ら連盟歌『花はかおるよ』など7曲を歌った。1992年(平成4年)、永年にわたる功績を称えられ、連盟から最高功労章である「きじ章」を贈呈された。藤山の葬儀の際にはボーイスカウトのブレザーときじ章を身につけた写真が遺影に選ばれた。

1958年(昭和33年)6月、藤山はロータリークラブ(東京西ロータリークラブ)に入会した。藤山は会員として精力的に活動し、例会に欠席したことがなかった。

死の前日の1992年8月19日にも杖を持ち車椅子に乗って出席を果たしている。会の運営にも熱心で、1986年から1987年まで東京西ロータリークラブの会長を務めた。『東京西ロータリークラブの歌』をはじめ、ロータリークラブにまつわる歌の作曲や会員への歌唱指導も行った。

幼少期から短気で手が早かった。この性格が原因で前述のように幼稚園を転入させられたほか、慶應義塾普通部時代には3週間寄宿舎暮らしを命じられたことがある。

この時、暴れ回れば寄宿舎寮長で修身教師、香下先生から、雷を落とされると知った丈夫は、余暇にセーターなど編み物して過ごすようになった。編物は藤山の特技の一つとなった(編棒一本掬い編みでセーターなど朝飯前な程)。

ラグビー部に入部したのも、ラグビー部なら、少々暴れても、トレーニングの為と弁解できるから…。だそうだ。

晩年になっても藤山の気性の激しさは変わらず、タクシーの運転手と喧嘩をし、血だらけでスタジオにやってきたこともある。

車好きとして知られ、幼いころから自動車に親しんで育った。小学生4、5年生の頃には生家のモスリン問屋にあった配達用の貨物自動車の車庫入れをし、オートバイの運転もマスターした。

東京音楽学校在学中に自動車の運転免許を取得。流行歌手となってからも舞台への移動の際は自ら自動車を運転することが多かった。

運転マナーは良好で、優良運転者として1972年に緑十字交通栄誉賞銅賞、1982年に緑十字交通栄誉賞銀賞を受賞している。

ただし他人の運転マナーにも厳しく、割り込みをした車を怒鳴りつけることもあった。

所有車は終戦直後に乗ったダットサンを除き、すべて輸入車であった。

なお、藤山は1949年7月に肝臓膿瘍(肝臓に膿が発生する病気)にかかり入院生活を送ったことがあるが、この時将来に不安を覚えた藤山は妻を社長にして「ミッキー・モータース」という洗車・整備・給油の店を副業としてオープンさせている。

藤山が音楽を学んだ頃は楽譜は貴重で、学生は図書館から借りて写譜するのが常であった。そのため藤山は楽譜を乱暴に扱う者に対し非常に厳しかった。

藤山は、日本語の発音に厳しいことで知られた。

言語学者の金田一春彦は有名な逸話として、紅白歌合戦で『蛍の光』が唄われる際に指揮者を務めた藤山が、歌い出しの部分を「アクセントに合わないフシがついている」という理由で自らは決して声を出して歌おうとしなかったことを挙げている。

音名をイタリア式に発音する際も、「ラはlaで、レはre」だと厳密に発音を区別していた。

金田一は、藤山の厳しさは言葉のアクセントに厳しい作曲家本居長世の家に出入りしていたことで培われたものだと推測している。

藤山はプロの歌手にとって重要なのは正式に声楽を習い基本的な発声を習得し、基本に忠実でしっかりとした発声により歌詞を明瞭に歌うことであり、技巧を凝らすのはその先の話であると述べている。

後輩歌手では伊藤久男、近江俊郎、岡本敦郎、布施明、尾崎紀世彦、由紀さおり、芹洋子、倍賞千恵子、アイ・ジョージなどを「ただクルーンするだけでなく、シングも出来る両刀使いだから」と言う理由で評価していた。