世界史上最も領土を広げた帝国トップ20 | 国民連合

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帝国の概念

皇帝が支配・統治する国家。支配者の君主号による国家の呼称の1つで、類似の呼称には王国、公国、大公国、首長国などがある。

 

自称帝国、皇帝が代々継承された一族でない者が統治している国家を帝国とは言わない。

 

自国外で公式にEmperorと訳される人物とその公職がある。

現在、Emperorと翻訳される称号を持つのは世界で日本の天皇だけです。

 

1位:大英帝国
最大領土3370万㎢(1922年)
2位:モンゴル帝国
最大領土2400万㎢(1206年)
3位:ロシア帝国
最大領土2370万㎢(1866年)
4位:スペイン帝国
最大領土2000万㎢(1790年)
5位:清
最大領土1470万㎢(1820年)
6位:元 (王朝)
最大領土1400万㎢(1310年)
8位: ウマイヤ朝
最大領土1300万㎢(750年)
8位:フランス植民地帝国
最大領土1300万㎢(1938年)
9位:アッバース朝
最大領土1110万㎢(750年)
10位:唐
最大領土1100万㎢(663年)
11位:ポルトガル帝国
最大領土1040万㎢(1815年)
12位:正統カリフ
最大領土900万㎢(654年)
13位:ブラジルの帝国
最大領土850万㎢(1880年)
14位:アケメネス朝
最大領土800万㎢(BC 480年)


15位:大日本帝國(世界史上、最後の帝国)
最大領土740万㎢(1942年)現代でも世界6番目の海洋国家である。

 


18位:ローマ帝国
最大領土650万㎢(117年)
18位:明
最大領土650万㎢(1450年)
18位:漢
最大領土650万㎢(100年)
19位:ナチス・ドイツ
最大領土640万㎢(1942年)
20位:突厥帝国
最大領土600万㎢(557年)

 

大日本帝國
日本国の旧称。昭和10年以降の日本の正式な国号であったが、昭和22年(1947年)の日本国憲法の発布により、正式に終焉を迎えた。

昭和22年(1947年)に「大日本帝國憲法」が廃されて「日本国憲法」が施行されるまで存続した日本国の旧称。 


皇室を推戴する日本という名の国家ということで、「大」を美称として接頭に付したもの。 


特に近代に用いられたが、当時における意味・用法は現在の「日本国」と全く同様であり、神武天皇建国以来の日本のことを指した。より正確には神武天皇以前の神代から始まって、建国以来の大和時代・奈良時代・平安時代・鎌倉時代・吉野朝時代・室町時代・安土桃山時代・江戸時代・幕末時代・明治・大正・昭和20年(1945年8月)までの日本という君主制国家を指したのである。 

またに現在では俗に、近代の日本やその旧体制のことを指す限定的な用い方もされる。その場合、明治維新から第2次世界大戦(太平洋戦争)までという認識が多いが、中には明治23年に大日本帝国憲法が施行されて正式な国号として称されたとする見方もある。しかし正式な国号が「大日本帝国」に統一されたのは、昭和11年になってからのことであり、外交文書にも「日本国」「大日本国」「日本帝国」などのざまざまな表記が用いられ、それ以降も憲法によって名称が統一されていたとは考えられていなかった。 

古代の朝廷

その歴史は、九州から大和への東征譚で知られる神武天皇に始まるとされる。すなわち神武天皇の即位(建国)以来、皇室を推戴する国家であることこそ、日本が帝国にカテゴライズされてきた所以である。神武天皇即位の実年代は3世紀以降と推定されるが、古代の史実に属するために文献以外の史料が少ない。初代天皇以降、大和朝廷は三輪山麓の磯城地方を中心に、各地在郷勢力の氏族と広範な結縁協力関係を結んで、次第に畿内に地盤を固めてきた。そしてやがて第9代開化天皇の前後には、畿外への四道将軍の派遣となった(第7代孝霊天皇の吉備派遣最初とする説あり)。 


現時点で神武天皇の実在は否定されており、実在が確かな最初の天皇といわれるのが、3世紀、畿内に勢力を伸ばした第10代崇神天皇であろうと思われる。この頃には恐らくは九州に勢力基盤があったと思われる邪馬台国の女王・卑弥呼(ヒヤコ/ヒミコ/ヒメコ)が魏に使いを遣わしたことが『魏志』倭人伝などの史籍に見られる。これによれば、「倭国は大乱を終えたばかりであり、今も群雄が割拠している」とあり、もし、後の大和朝廷の原型があったとしても小勢力であったろうと思われる。 


その後も崇神皇の皇統を継いだ歴代天皇により大和朝廷が発展していき、第15代応神天皇以降の時代にも国や朝鮮との国交は活発であったようであるが、一部では第25代・継体天皇の世に王朝の交代があったとの説がささやかれており、皇統の一貫性には疑問の余地が残されている。第29代欽明天皇の時代に仏教が伝来し、蘇我氏と物部氏の対立が激しさを増し、ついに蘇我氏が勝利。しかし、その蘇我氏の専横を阻止するために中大兄皇子(天智天皇)によるクーデターが起き、大化の改新が始まったが、百済復興を目指した「白村江の戦」において唐・新羅連合軍に惨敗、天智天皇は崩御までの間、ついに来ることのなかった唐・新羅の来寇に奔走することとなった。 


天智天皇の崩御後、天皇の弟・大海人皇子と天皇の皇子・大友皇子による皇位争い、日本古代最大の内乱である壬申の乱が起き、勝利した大海人皇子が即位、第40代天武天皇となった。天皇は国際的な危機意識と自身の卓越したリーダーシップにより、天皇を中心とした強力な統治体制の確立がめざされた。その方針は持統天皇にも受け継がれ、「古事記」・「日本書紀」の編纂がはじめられ、国号も「日本」に改められた。東大寺の大仏の造営で知られるように、第45代聖武天皇をはじめこの時代は仏教への帰依が深く、全国に国分寺・国分尼寺が建てられた。 


桓武天皇は平安京に都を遷し、平安時代の幕が開いた。第56代清和天皇は幼帝であり、外祖父の藤原良房が摂政として全権を握った。摂関政治の始まりである。こうして藤原氏の摂関政治が始まり、藤原道長の時代に全盛期を迎える。第59代宇多天皇は藤原基経・時平父子と対立し、菅原道真を重用して右大臣に任じ、律令国家の再編のために親政を行ったが、第60代・醍醐天皇は時平の言を入れて道真を更迭、大宰府に左遷した。宇多天皇は譲位後、出家して最初の「法皇」となる。第71代後三条天皇のときに宇多天皇以来170年ぶりに藤原氏を外戚としない天皇が即位した。 

中世の朝廷

後三条天皇の後を継いだ第72代白河天皇も藤原摂関家と血のつながりが薄く、譲位後も上皇、法皇として実権を握り、院政を行った。院政は鳥羽上皇、後白河上皇と続き、実権を失った後も細々と江戸時代まで行われた。 


平安時代末期、朝廷の頂点に立つ上皇・法皇の権力は朝廷も摂関家もしのぐ強大なものであったが、やがて、国司受領を繰り返す下級貴族が武家となって力を伸ばしてきたのに伴い、摂関家をはじめとする上級貴族は力を失うことになり、その中でも保元の乱・平治の乱を勝ち抜いた平家政権と対立することになった。 


平家一門は源頼朝をはじめとする坂東武者に敗れて滅亡したが、頼朝は鎌倉幕府が開いて、武家による新たな政権を建てた。やがて実権は北条氏に移り、後鳥羽天皇は倒幕のために立ち上がるも武士の利益を阻害する朝廷に支持は集まらず、朝廷軍は鎌倉方の大軍に敵することなく敗れ去った(承久の乱)。この戦乱に勝利した幕府も元の侵攻(元寇)に際して充分な恩賞を与えることができずに武士の支持を失ってやがて衰退していく。 


天皇親政の復活をめざした第96代後醍醐天皇は、鎌倉幕府と対立し、ついに倒幕を果たして建武新政を行われた。しかし、新体制は武力倒幕に力を尽くした武士たちに充分な恩賞を与えることなく、人事も不公平だったため、ほどなく支持を失い、源氏の名門・足利尊氏の反乱により、新政権はわずか2年半ほどで幕を閉じ、室町幕府が開かれた。その前半、朝廷は京都にある持明院統の北朝と吉野にある大覚寺統の南朝が並立する南北朝時代が始まり、両統の抗争による緊迫した情勢を迎えた。 

近世の朝廷

明徳3年・元中元年(1392年)閏10月、室町幕府・3代将軍・足利義満の手によって南北朝は合体したものの、騒乱は続き、応仁の乱や群雄割拠の戦国時代へと進んでいく。このころの朝廷は御所も荒れ果て、天皇でさえ日々の食事に事欠き、野盗の襲撃におびえるというありさまであった。第103代・後土御門天皇崩御に至っては天皇の葬儀が43日も挙行できないという悲惨な状況であったという。このように都でさえ荒廃を極めたあげく、天正元年(1573年)、ついに室町幕府も滅亡した。時の権力は織田信長から豊臣秀吉、徳川家康の手に移り、慶長8年(1603年)、家康によって江戸幕府が開かれた。 


以後徳川270年、将軍家は代々儒学を奨励したとされる。実践倫理として浸透していった。学芸が大いに発展したこの時代、国文学は町人階層の手によって興隆し、漢文学は儒学者の手になるものが中心となった。 


一方で幕府は強力に社会を安定状態に保つ諸政策を執り、厳格な階層的身分制度はあったものの学問の振興は目覚ましく、一介の町人が和算の研究を行ったり、医学を志して町医者になるなど、比較的緩やかな面もあった。長きにわたった泰平に伴い、商業の発展も目覚ましく、富裕な都市町人は元禄の庶民文化の花を咲かせるに至った。しかしながら、海外貿易や西洋科学の交流は鎖国によって庶民には禁止されており、幕末に至るまで一部が幕府によって管理されていた。 
その長期政権も数百年の時を経て、嘉永6年(1853年)、黒船の来航を期に時代は徐々に混迷を深めてゆき、欧米列強の来航を起因として、時代は幕府倒壊へと向かった。激動の中で志士たちは国事のために奔走し、慶応3年(1867年)10月、15代将軍・徳川慶喜は大政を朝廷に奉還した。 

近代の帝国

明治維新が実現し、新政府は、庶政神武創業の始に基づいた。第122代明治天皇が都を東京と定めて移り、東京を「帝都」と称した。 
統治機関は天皇を明確な国家元首・立憲君主とし、その下に内閣、貴族院と衆議院の二院制による帝国議会が置かれ、行政や法制定などの政治運営がされた。 


日本国民は日本本土の日本人やアイヌを始めとする内地人、統治下の海外領土の台湾人や朝鮮人などの外地人とし、外地人には内地人とは違う適用法律、戸籍、地方行政組織が当てられた。 


軍事組織である日本軍は天皇に統帥権があり、統帥部には大日本帝国陸軍の参謀本部と大日本帝国海軍の軍令部が置かれ、各軍を指揮。戦時には大本営が設置された。 


教育制度の確立、国民教育の普及などが図られ、官・私立の大学が各地に発祥した。明治の新政府は欧米の学問・文化を重視して教育に次々と導入した。 


国内的には君民一体の近代国家が形成されると共に、日清戦争・日露戦争を経て国際的にも日本は地位を向上し、20世紀前半ではアジアにおける列強として欧米に肩を並べた。大正の世となり、第一次世界大戦後の国際連盟では常任理事国になり、パリ講和会議では非白人国唯一の大国として「人種差別撤廃案」を提出し、当時では画期的な国際的人種平等を唱えた。 

近代における領土・統治地域

内地 ‐ 南樺太から南西諸島までの日本列島、小笠原諸島 
外地 ‐ 台湾、朝鮮半島 
租借地 ‐ 関東州(満州の遼東半島の一部) 
委任統治区域 ‐ 南洋諸島 

日本領に戻りたかった国

敗戦後、沖縄が当初アメリカ統治領とされ、その後独立国とするロードマップが敷かれていたにもかかわらず、現地の強い本土復帰運動によって日本に復帰したのは有名な史実である。 

が、沖縄・奄美諸島以外にも日本復帰運動が行われたことはあまり知られていない。 

台湾では、中華民国への帰属が決まったが、現地人の多くは自分達を日本人と意識しており、終戦直後からGHQの占領が解けるまでの間、台湾の日本復帰運動が少なからず行われていたという。これは日本国憲法の制定で日本の領土が列島と沖縄と確定すると下火になっていった。 


しかし、その後の国共内戦に伴い中国本土からの流入者(外省人)ともともとの台湾人(本省人)の間で軋轢が生じたこと、中華民国が中華人民共和国との内戦に実質的に敗北し台湾以外の領土を失い、台湾にとって中華人民共和国が脅威となったこともあり、草の根レベルではあるが未だに台日再合邦を主張する人たちがいる。彼らは非公式の日本名を名乗り、日本語のWebサイトを立ち上げてたりする。また、李登輝元総統の発言にもそれを肯定するものが少なくない。 

パラオでは、1994年にアメリカの信託委任統治が失効したが、これに先駆けて、当時のパラオ行政府から日本政府に対し日本統治復帰の要請があった。この際、日本は丁重に断った。 

いずれにせよ、多くの旧植民地国家が植民地支配を百パーセント否定していないことは多いが、統治下に戻りたがった国・地域が存在するというのは前代未聞である。 

また、これはジョークの類だが、北方領土のロシア住民が「我々が幸福になる方法」として、 
「まず、ロシアから独立を宣言する」
「次に、日本に宣戦を布告する」
「たちどころに降伏して、我々は日本国民になる」

……という冗談がソ連時代からある。 

帝国の終焉

第124代昭和天皇は、太平洋戦争回避のために腐心されたといわれ、最後は終戦という決断をするにいたった。昭和20年(1945年)8月15日の敗戦とともに帝国としての日本は崩壊し、新しい制度がこれにとって代わった。9月2日には東京湾頭アメリカの軍艦・ミズリーで降伏文書に調印、9月3日には天皇が宮中三殿に戦争終結親告の祭儀を執りおこなわれ、勅使を神宮ならびに各山陵に参向させて、戦争終結を報告した。 


終戦後、日本は民主主義国家「日本国」と称するようになった。昭和22年(1947年)に制定された「日本国憲法」や当時の首脳見解によって国号は「日本国」に統一されており、「大日本帝國」は名実ともに終焉を迎えた。