今年もあと今日をいれて5日で終わる
そして今年1月初めから「コミケ出展してみようかな」と思ってから12か月経つ。
2月、アイパッドを買って準備して漫画を描き始めたけど。子どもの不調でわたしの心も元気が出なくなった。切り替えがなかなかきかないだめな自分の心。
わたしが落ち込めば辛いのは子どものほうなのに。わたしが励ます立場なのに。
描きかけの漫画が止まってしまった。4月やっと雲の切れ間が見えた。やまない雨はないってほんとね!喉元過ぎればの単純構造。
さあ、描こうって思ったけど。その前に父母の施設の見直しをしようと思った。
父は手取り足取り大事にされすぎて今の施設では物足りない。母ももう少し、まわりの方たちと触れ合いが持てるほうがいい。思い立ったら吉日で探し始めたら、なんと、さっき、開設したばかりの綺麗なサコウジュが見つかった。
サコウジュってなんだかわかります?フランス語みたいだけど。違うんです。笑。
「サービス付き高齢者住宅」の略なんですよ。( ;∀;)
綺麗で広々した部屋、大きな窓。前の施設よりも、自立しなきゃいけないけど。
でも、十分なケア。もう、父母を連れて即契約した。
こじんまりしたかわいい家具をそれぞれ入れて父母も居心地よさそう。
よかった。さぁ、今度こそ、本作りとりかかろう。
6月の父の米寿は家で楽しく過ごせた。よかったなぁ。施設を変えて。
でも、7月から父の様子が変わった。階段を踏みはずすかのように心身ともに衰えだした。張り切って行っていたデイケアが休みがちになった。気持ちがよいと言っていた施設の大きなお風呂も入りたがらなくなった。洗濯物の入れ替えに行くと部屋で横になっていることが多くなった。
どうしたの?どこか具合が悪いの?と聞くと「全部」と応える。
かかりつけの精神科の先生に予約日外に診察を申し込んでくれと頼まれる。
なんの不安もないはずなのに。
8月のお盆には家へ連れてくる予定だった。一緒におはぎを食べようとあんこも煮て
待っていた。「行きたくない。出かけたくない」
9月のお彼岸には一緒にお墓参りをしようと思っていた。なんなら、ちょっと遠出してドライブしてもいいなと思っていた。
「もうどうにも気持ちが悪いから○○先生の診察を頼む」
彼岸前の平日の朝、父から電話が入った。精神科の○○先生は今日はおられるかわからないよ、というと、それでも電話してみてくれと言う。
足の弱った父母のために大きな四駆の車は出した。後部座席に乗り込めないんだもの。新しい車が来るまで代車だった。なんとか、抱えて父を乗せて、降りるときも抱き下ろすように車椅子へ移乗させた。父の足は急速に萎えていた。
先生に診察してもらうと少し気持ちが落ち着いたようで「薬も少し変えてみましょう」と言われると、暗い表情ながらもほっとしたように見えた
ホームのお昼には間に合わなかったので病院の帰りにすき屋に寄って父の好物の牛丼弁当を持たせて送っていった。
「オスカリーヌ」の巻末につける漫画も最終章のストーリーもほぼ出来上がった。
「そののち」のストーリーも書けた。
あとは紹介してもらった素敵な校正屋さんにデータを送るだけだ。ほっとした。
2日後、わたしはコロナ発症した。その翌日、ホームのスタッフから父がコロナになったと電話があった。父は糖尿だからコロナの薬を飲ませたほうがいい。自立度の高いサコウジュ(フランス語ではない)では入居者の病院への送り迎えは家族の役目なんです。頭ガンガン、熱もガンガンだけど、同じコロナならわたしがやるしかない。
父を代車に乗せて病院へ連れてって「レムデシビル」という薬の処方箋を書いてもらう。父をホームへ送り届けて、取って返して薬局へ行って薬を買う。レムデシビルは小さな医院の横の小さな薬局じゃだめだそうです。大きな病院に付随してるようなとこでなくては置いてないそうで。
フラフラしながら薬をホームに送り届けて家へ帰ってソファに倒れこんだ。
あー、ホームっていいわ。看護はやってもらえるもの。と、思っていたのもつかの間
夕方、父の容態が思わしくないので救急車を呼んで病院へ搬送すると電話があった。
救急車には家族が付き添わないとだめなんですね。「わたしもコロナで熱出てますが」というと、救急隊の方が「あ、では、来なくて結構です」言ってくれた。
結局、ホームのスタッフが緊急ということで付き添ってくれたらしい。
スタッフさん、一生恩にきます。
緊急搬送された病院でコロナ肺炎から誤嚥肺炎を繰り返した父は10月半ばにもう治療できることはないと言われた。急性期病院では治療しない患者は入院し続けることはできないので療養型病院か施設へ転院する。別にその救急病院が冷たいわけではない。だけど、わたしもその病院で父があの世へいくのは嫌だった。
どこか近くて、良いとこ探さなきゃ、と電話しまくった。見学へ行った。
てきぱきと本の初稿データを送ってくださる校正屋さんのお返事はなかなかできずご迷惑をおかけしていた。
療養施設が見つかって転院することを連絡したとき、担当の先生に言われた。
「もう、点滴を止めて楽にさせてあげたほうがご本人のためです」
「いや、今、療養施設と契約したので1週間後には転院できるので、あと1週間はもたせてください」
なんとしても病院のカーテンの陰で父を死なすのが嫌だった。
療養施設に移ってから、あと1週間と言われていた父の顔いろがみるみるよくなった。「看護」と「介護」は違うんだなぁとしみじみ思った。口からものが食べられないのは変わらないけれど、エアマットのベッドへ寝て、体位交換も頻繁にやってもらってお風呂に入れてもらえて、犬にも玄関先で会えて。父は小康状態になった。
喋れるようになった父の枕元でクロスワードを読み上げて二人で答えあった。
遅れがちなわたしに対して心優しく優秀な校正屋さんはすてきな原稿データを作り上げてくださってとうとう印刷所へ入稿できた。
初めての本、初めての試作本、感動して枕元に置いて寝た。
コミケのサークル出展も当選して、本も2冊量産できて、父も小康状態が続いていて、12月29日には来てくださるとおっしゃってくれる方がいて。あ~、幸せだわ、としみじみ感じていた。
佐川便で本を送り込んだ夜、療養施設から電話があった。「左わき腹の痛みで苦しんでいます、場合によっては救急車を呼ぶのでそのときは来てください」
午前2時まで待機していたけれど、急遽診察してくださった訪問診療の先生の痛み止めが効いてその夜はおさまった。翌日、訪問診療の院長先生と今後のことについて相談を申し込んだ。
「ここでは家庭の訪問診療並みの薬しかありません。大きな病院へ入院したほうが
痛みの原因も探れるし、使える薬の種類も多いです。だから救急搬送もありかと思います」
先生はおっしゃった。わたしはまた、病院へ父を戻すのが嫌だった。
自分の具合が悪い時、動きたくないですよね。母に、「早く起きて着がえて!お医者さんいくわよ」と言われるのがうっとおしかった。寝てたいよ、かったるいよ。
父は寝たまま運ばれるけど、冷たい診察台の上に乗って、鼻からか下からか管を通してカメラで見て検査して。あっち側へ転がりこっち側へ転がり。
検査後はもう半死半生でぐったりと病院のベッドに運ばれるんだ。たぶん、そのまま
生きて出られないだろう。
もう、出来る限界でいいからここでお願いします。痛みをとるだけでいい、なんなら眠ってしまっていいからとお願いしました。モルヒネでも、と言ったら。モルヒネはちゃんと診断がついた病名の病でないと使えないんだそうですね。(わたし海外医療ドラマいっぱい見てるから、つい)
お父さん、ごめん、それでもやっぱりここの座薬でやりすごそう。痛いときには眠剤もらおう。ここのスタッフさんはみんな優しくてみんな声かけしてくれるじゃん。
お風呂も入れてもらえるし。
あと2日。来てくださるとおっしゃってくださるお客様。サークル「びあん家」は
オープンしていますが、わたしはいないかもしれません。わたしの孫がかわりに売り子で立っています。そのときはほんとうに申し訳ありません。
来年、また、やりかけの漫画を全部完結させて本を作って売り子に立ちたいと思います。今年、わたしがお客様をお迎えできなかったら、ほんと、ごめんなさい。
アンドレはお迎えします!