その日、オスカルがノアイユ夫人の居室を訪ねると、夫人はおらず夫人の仕事の手助けをしているラシーヌ夫人がいた。

 

オスカルのノックに応えたのはラシーヌ夫人だった。
 

「これは。近衛連隊長さま。どこかお具合でも?ただいま、ノアイユ夫人は王妃さまのお居間へうかがっておられます。じきに戻られると思いますがわたくしにできることがあればなにか。」
 

ノアイユ夫人は正式な医師ではないが若いころに学んだという医術の心得で宮殿のなかでは看護係として重宝されていた。軽い打ち身やケガ、または二日酔いや腹痛くらいならこの老夫人の持っている薬と施術で十分間に合ってしまう。

ラシーヌ夫人はいつの頃からかノアイユ夫人の看護助手をしているのだった。
 

オスカルはこのノアイユ夫人の部屋をずいぶん久しくたずねていなかった。

 

まだ、入隊したての階級のない近衛兵だったころは訓練中の傷や打撲でたまに夫人の世話になることもあったが。

 

ノアイユ夫人はかなりお年を召した老婦人だが元気な方で特に自分とアンドレが気に入りで優しくしてもらっていた。そしてこのラシーヌ夫人もたいてい傍にいてノアイユ夫人の指導のもと、包帯を巻いたり、傷薬を塗ってくれたりした。

だが、いつも微笑んでおられるだけであらためてお話をしたことはなかったな、とオスカルは思い返した。
 

「いえ、今日はわたくしのことではないのです。ノアイユ夫人がずいぶんアンドレの怪我のことをお気にかけてくださっているとのことでしたので。そのご報告をと思いまして。」
オスカルは目を伏せながら答えた。

 

自分の危険な作戦のせいでアンドレの左目の光が永遠に失われてしまった。

オスカルは今、そのことで自分を苛んでいた。自分が失明するよりも心が苦しかった。

さらに、その事件を口に出すことも血しぶく傷口をえぐるように辛いがそれが贖罪のように思えてオスカルは問われればあえて話すのだった。
 

「そうですか・・・。なにか大怪我を負ったという話は夫人からお聞きしていましたが、なにも存じませんで申し訳ないことでございます。」
 

オスカルはそんなことはないだろうと思った。

 

これだけの騒ぎである。盗賊をとらえるはずがロザリーをさらわれたり、従僕が大怪我まで負ったにもかかわらずとらえたのは黒い騎士ではなく人違いだったという大失態である。

どんな小さな失敗でもスキャンダルでも見逃されることはなく翌日には知れ渡り誰ひとり知らないものはいないという宮廷なのだ。

 

けれどもラシーヌ夫人がそのままなにも問うこともしないので会話はそこで終わってしまった。
 

「ノアイユ夫人はすぐ戻られます。どうぞお待ちになってください。」
 

そういうと夫人は小間使いにお茶を用意するように言いつけて自分はまた包帯に使う布を巻く作業に黙ってとりかかってしまった。

 

重い心かかえたオスカルはそのラシーヌ夫人の横顔をぼんやりと眺めていたが、夫人が美しいことに、いや、かなり美しいことにふいに気づいた。

 

そういえば、むかし、夫人の美貌はベルサイユ一番と言われてなにか派手な恋愛事件があったと聞いたことがある。

こんなに美しい方だったのか。

見たところ母上よりも少し上くらいのお年か。

母も我が親ながら美しい女性と思っていたが、この夫人も本来の美貌に加えさらに年齢を重ねた美しさとはこういうものかと思わせた。
 

「オスカル・フランソワさま。お母上さまはお元気でいらっしゃいますか?」
 

ラシーヌ夫人は顔はあげないまま言った。

 

自分が母のことを考えていたのをまるで見透かされでもしたかのようでびっくりして
「あ、はい、おかげさまで。」
と間の抜けたような返事になってしまった。
 

「もう、ずいぶん昔にお母上にご親切にしていただいたことがあります。お美しくてしとやかでお優しいかたですが勇気と強さをお持ちの方です。女性の美徳のすべてを備えられたようなお方です。」
 

オスカルは驚いてなにも言えなかった。

母がこのラシーヌ夫人と知り合いだったということも知らなかったし誰からも聞いたことはなかった。
 

「古い古いお話ですわ。」

ラシーヌ夫人はやはり、布を巻く手を休めることはせず微笑みながら話始めた。

 

「わたくしの家はさして格のある家柄ではないのですがさる高貴なお方の乳母をわたくしの母が務めさせていただいておりました。

そのおかげでわたくしも幼いころから宮廷へ出入りを許されその高貴なお方の身近でまるで、そうですね、兄妹のように過ごさせていただいたのでございます。

わたくしの少女時代はまるで、凱旋将軍にでもなったかのようでした。

きらめく光と花々が毎朝わたくしに与えられ美しい音楽が毎日奏でられているような。宮殿はどこも白と金色に輝いてその中でだれもがわたくしに親切で優しくてほほえみに満ちていて。太陽はわたくしのためにのぼり小鳥たちはわたくしのために歌っているとでも思っていたのかもしれませんね。

自分でもなんて怖いものしらずのおばかさんだったのかしらと思いますよ。」
 

「若さというものはそういうものではないでしょうか。年を重ねてもそれをわからない愚か者もおりますよ。」
オスカルは声低くこたえた。まるで愚か者が自分でもあるかのように。

 

ラシーヌ夫人は手を止め膝に置くとオスカルのほうを見てほほ笑んだ。けれどもオスカルのその自嘲にこたえることはせず話を続けた。

 

「わたくしの母がお世話する高貴なお方はご自分の身分にふさわしい高貴で美しい奥様をめとられました。さらにたくさんの美貌な方々を愛人にされました。そりゃあ、もう、次々と。ちょっと多すぎるのではないか、と思うくらい。」
 

夫人のおかしそうな笑いにオスカルもついひきこまれて笑った。

 

「わたくしはその高貴な方にお聞きしたことがあります。
『おにいさま。そのようにたくさんの美しい方をいっぺんに愛せるものなのでしょうか?』
あの方はこう言われました。
『自然が作ったものに完璧なものがあるかね?すべてのものには長所短所があるのだ。わたしはその長所の部分だけを愛でているのだよ。だから、もう、これで器はいっぱいというところまでにはまだまだ十分余裕があるというわけさ。』
ひどいことをおっしゃいますでしょう?

殿方というものはみんなそうなのかしらとわたくしはぷんぷん腹を立てました。

その方はわたくしの手を取って言いました。
『でも、おまえは特別だよ。かわいい妹よ。おまえのことを長所短所などと分別することなどできはしない。すべてをひっくるめておまえなのだ。おまえはこの世界でただひとり、こころを分かち合える者。おまえを唯一無二と思う男でなければわたしはおまえを与えはしないよ。』
思い返せばずいぶんずけずけと畏れ多いことをわたくしは申し上げていたのですね。」

ラシーヌ夫人はほうっとため息をついた。

 

「やがて、わたくしにもとうとうわたくしのことを唯一無二と思ってくださる殿方が現れました。家柄もつり合いが取れていてだれがみても申し分のない縁組。そして、ほんとうにわたくしだけを熱烈に愛してくださっていました。わたくしもその方を愛しました。生まれてはじめてひとを恋するということを知りました。

わたくしは意気揚々と結婚のお許しを願いにあがりました。」

 

「お兄様のお気に入りの美しいデルフィニウムブルーのドレスを着て行きました。必ずお兄様は笑って御許しくださるはずと思っていたのです。

けれども、こたえは思いがけないものでした。
『ノン!』
なぜなの?わたくしは泣いて訴えました。なにがいけないのでしょうか?彼のどこが?わたくしのどこがその縁組にふさわしくないというのでしょうか?」


「わたくしがひとり宮殿の居室で泣いているとお兄様がやってきました。理由を知りたいとすがるわたくしをあの方はいきなり押し倒してそのブルーのドレスをはぎとろうとするではありませんか。今、思えばそれはあの方の嫉妬、独占欲だったのでしょうね。

わたくしは動転しました。今までのわたくしのその方への信頼は崩れ去りました。」

 

オスカルは思わず息をとめて聞き入った。

 

ただのラシーヌ夫人の昔語りと思っていたのに先日の自分とアンドレの姿に重なった。

 

ラシーヌ夫人は続けた。
「男の力に押さえつけられるのは恐ろしくもありましたが、と、同時に猛烈に腹が立ってきたのです。わたくしが今までその方に捧げてきた真心と愛情を踏みにじろうとしていることに。わたくしたちが何年もかけて築き上げてきた友情と信頼をいとも簡単に壊そうとしていることに。なにせ、その頃のわたくしは太陽も自分のためにのぼるなどと思っていたくらい鼻っ柱も気も強かったですからね。」

 

ラシーヌ夫人はまたおかしそうに笑ってオスカルを見た。
 

「あなたが?信じられません。」
 

ラシーヌ夫人のいまのおだやかな笑顔を見るとオスカルはついつぶやいてしまった。
 

「本当ですの。わたくしはいったんいかにも屈服したかのように力を抜いてみせ、その方を安心させたあと思いきり噛みついてやったのです。手に。そして、あの方がぎゃっと悲鳴を上げて飛び上がったところを逃げ出して、粋でおしゃれなフランスの殿方が一番して欲しくないことをしました。ブルーのドレスの胸元を押さえ大声で泣き叫びながらわざと宮殿中を駆け回りました。」

 

ラシーヌ夫人は今度はほほほと手で口をおおって笑った。
 

あっけにとられながらもオスカルは言った。
 

「地位と名誉のある方にそのような恥をかかせてはただではすまなかったのではありませんか?」
 

「そのとおりです。でも、仕返しをしてやらずにはいられなかったのです。悲しみの分量だけ憎くもありましたから。」

 

憎い?オスカルは自分に問うかのようにつぶやいた。

 

「はい、憎うございます。女は力づくで事を運ぼうとする殿方を憎く思うものではないでしょうか?」
 

「わたくしは・・・、わたくしの友人は憎いとは思っていないようです。」
 

思わず、友人の話として言ってしまったが本心だった。

 

ラシーヌ夫人ははっとオスカルを見つめた。そして
「そうですか。お友達にもそのような方がいらっしゃるのですか。それはお気の毒なことです。女は悲しいものですね…。ひどい目におあいになりまして?」
 

「押し倒されて服をひきちぎられました・・・、」
 

オスカルはなぜ、さして親しくもないこの夫人にこんなことまで言ってしまうのかわからなかった。

この夫人の持つ柔らかい話しやすい雰囲気がそうさせるのか。
 

「・・・。なんということ。」
 

「でも、最終的には男が後悔してなにごともありませんでしたが。」
 

「だからと言って、許せるものではないでしょう。」
 

オスカルはしばらく考えてから言った。
 

「・・・なかったことにしたいのです。」
 

「それは、卑怯な男です。」
 

「いえ、彼女のほうがです。男のほうは罪を問えば死をもってでも償う覚悟でしょう。」
 

「お友達はその男性になにか負い目をお持ちだったとか?」
 

「もしも負い目を思ったら彼女はされるままになっていたのではと思います。彼に対して払いきれない負債をかかえている人なので。」
オスカルは目を伏せて言った。
 

「弱みに付け込むような男なら余計に憎く思うはずですものね。」
ラシーヌ夫人はうなずいた。
 

むしろオスカルはアンドレの恋に気づいてやれず、一人思い詰めていたアンドレが悲しかった。それは少し前の自分となんら変わらなかった。アンドレの前でフェルゼンのことを想い悩む自分はどんなに無神経であったことか。
 

「憎く思わないまでも、もう以前の関係には戻れませんね。男性は罪なことをなさる・・・。」
言いかけたラシーヌ夫人をさえぎるようにオスカルは叫んだ。
 

「いいえ!」
「あ、いや、彼女は、離れることなどできません。たぶん。だって、彼を・・・ !」 
オスカルは、言いかけたまま言葉にならずラシーヌ夫人を見つめた。

 

夫人もまた黙って見つめ返していた。そうだ。自分でも不思議だったのだ。

確かにあの翌朝はお互い視線を合わせることもなく言葉少なだったが宮殿での任務を終えて帰路につく頃には表面的にはわたしたちはすっかり普段どおりだった。あえてそうしていた。

アンドレを失いたくないのだ。わたしはなにがあってもアンドレと離れることなどできない。
 

ラシーヌ夫人はオスカルの言いかけた先を問うこともせず立ち上がると窓辺へ行って沈みかけている西日を眺めながら言った
「・・・女の心は海のよう、と申しますものね。たくさんの想いを秘めているのかもしれませんね。」

 

 

ふたりはしばらく黙っていたが夫人はふふっと笑うとさきほどの続きですけれど、とまた話をはじめた。

「宮廷の中でしばらくは誰からも相手にされず、みな、わたくしから遠のいて行きました。わたくしに近づけば権力者ににらまれると思ったのでしょうね。母には修道院に入れとまで言われました。そんななかでただ一人わたくしに話しかけて慰めてくださったのはまだお若くて新婚のジャルジェ夫人だけでした。ご自分もまだヴェルサイユへ来て間もなくて心細いはずですのに。真の勇気と公正さとそしてお優しさをお持ちの方ですね。」
 

「失礼ながら、よく、宮廷への出入り差し止めを免れましたな。」
ラシーヌ夫人のその思い出の相手がすっかり察しのついたオスカルは微笑しながら言った。
 

「だって、やはりとってもお優しい方でしたもの。わたくしへの愛情も本物をいただいたと今も思っておりますよ。残念ながらあの夜以来いっさいお口はきいていただけぬままでしたが。でも、いつも1日に一度は必ずわたくしのほうをご覧になってくださるのはわかっておりました。わたくしもいたずら心で時々あの夜のデルフィニウムブルーのドレスを着てわざとあの方を慌てさせたりしたものです。ああ、わたくしもお慕い申しておりました。恋愛とはちがいましたけれど。本当に女の心ははかりしれないものですね。」
ラシーヌ夫人はまた笑った。

 

「すっかり長居をしてしまいました。ノアイユ夫人はまだお戻りにはなられないようなので。また、出直してまいります。」
オスカルは立ち上がった。
 

「まぁ、こちらこそ。あなたさまの面差しがあんまりお母上さまに似ていらしたので、つい昔話でお引止めをしてしまいまして。」
 

オスカルは意外そうに言った。
「そうですか?わたくしは父似だと言われております。」
 

「女の子はだんだん母上さまに似てくるものなのですよ。」
ラシーヌ夫人の言葉に思わず苦笑した。
 

「では。アンドレを待たせておりますので。」
 

 

ノアイユ夫人のところへ来た事はアンドレには言っていない。
『べつに他人に報告するほどのことではないだろう。』
『おまえのことを気にかけてくださっているのだ。』
『ばかだな。ただの好奇心だけだよ。』
アンドレは笑ってはいたが自分の怪我のことでオスカル自身が心をさいなむのがいやだったのだ。

扉に手をかけたオスカルにラシーヌ夫人がふと思いついたように言った。
「オスカル・フランソワさま、ところで、お友だちはそのひきちぎられた服をどうされたとおっしゃいまして?まさか、わたくしのように意地悪の種になさいました?」
夫人はくすりと笑いながらたずねた。
 

オスカルは一瞬きょとんとしたが自分でもクスッと笑いながら
「さあ?そこまでは、聞いていません。でも、彼女にとっては永遠の秘密ですからね。たぶん、ベッドの下にでも突っ込んだのでは?」
ふたりは顔を見かわして笑った。

 

 

7月13日 出動の朝

オスカルの寝台の下に絹のブラウスが一着ほこりにまみれていた。

 

 

のちの誰かがそのブラウスを見つけて何故こんなところにこんなものが?と思っても、この部屋の主は永遠に戻ることがなかったのでそのいきさつもまた永遠に閉ざされた誰にも知られることのない秘密。

 

 Fin.