夜も更けて戻ると窓から月明かりが射していた。
枕元にブロンドの髪が光って乱れ流れているのがわかった。
アランは寝台の端にそっと腰を下ろし、華奢な肩から落ちている掛布をそっとかけ直した。
「帰ったのか?」
眠っているように思えたオスカルが低い声で尋ねた。
「起こしてしまいましたか?」
背を向けていたオスカルはゆっくりアランのほうへ寝返ると
「眠ってはいなかった。」
と、微笑んだ。
月の微かな銀色の明かりの下でもオスカルの美しい顔は以前と少しも損なわれていないのがわかる。
「なかなか帰れなくてすみません。」
アランは額から頬にかかるウェーヴした金糸のような髪を指で梳いた。
「軍務が忙しいのだろう?」
オスカルは目を閉じて気持ち良さそうにされるままになっていた。アランは滑らかな冷たい白い頬の上で手を止めた。
「兵舎に留まるべきでは?」
アランの手のひらに唇を寄せ美しい青い目を上げて言った。
「いいんです。入隊を承諾したときの約束ですから。」
「わたしのせいで厄介をかけるな。」
「いいえ。貴方がここに居てくれるだけで、俺は。」
アランは寝台からするりと降りるとオスカルの横に跪いた。そうしてオスカルの左手を取ると自分の両手ではさんだ。
「さあ、眠ってください。貴方が眠りにつくまで俺がここにいます。」
オスカルはふっと笑った。
「まるで幼い子どものようではないか。では、おやすみのキスは?」
アランは一瞬たじろいて言葉が出なかった。
「…キスしても…、いいんですか?」
「なぜ、そんなことを聞く?わたしはおまえの妻だろう?」
オスカルはアランを見た。オスカルの瞳が潤んで輝いていた。唇は濡れてわずかに震えているようだった。長い睫毛の目を閉じて口元はかすかに開かれ、心もち顔を上にあげた。
心から欲している衝動にアランは抗えなかった。
それでも自分を抑え、できるだけゆっくりと静かに最愛の女性の心を万が一にも傷つけないようにそっと唇を重ねた。
オスカルはされるがままに、やがて自ら求めて彼の唇を吸った。けれども、アランが我を忘れそうになる前にその唇は固く閉ざされてしまった。
アランは唇を離し目を開いてオスカルを見た。
オスカルもアランを見つめていた。
だが、彼女は自分を見ているのではない。アランを通り越してもっとその先を見ているのだ。
「すみません・・・。」
「謝らないでくれ。悪いのはわたしだ。」
オスカルはゆっくり起き上がると窓に顔を向け女の爪のように細い月を見上げた。
夜着がずれて白い両肩が露わになった。
「なぜだろう?わたしはおまえの妻なのに。愛し合って契りを結んだはずなのに。」
オスカルは後の言葉を続けられなかった、残酷すぎて。
おまえの唇、指、肌、香りがわたしの求めるものとは何故かまったく違うのだとは言えなかった。
夜着から透ける美しい白い背を見ながらアランは低い声で言った。
「いや、貴方のせいじゃありません。なにも。」
オスカルが後ろを向いているので涙を見られることはないがそれ以上なにか言おうとするとアランは声が詰まってしまいそうだった。
背中からオスカルの夜着を直し肩に手を添えそっと身体を横たえてやる。
「さあ、やすんでください。お願いですから。なにも考えないで。」
オスカルは横たわって僅かに首を傾げると「すまないな。」再びアランに謝った。
アランは何も言わず部屋を出てそのまま静かに扉を閉めた。
あの最愛の女性は永遠に俺のものになってくれることは無いのだと改めて思い知らされると深い悲しみの淵へ足元からずぶずぶと沈みこんでいくようだった。
オスカルは今夜も眠ることなく夜空を眺める。
漆黒の闇夜も今夜のような薄い月明かりの夜も雨が窓を打ち付ける嵐の夜も。あの心が砕け散った日から。もうずっと。
夜のほうが昼よりも集中して思い出せる気がするのだ。昼間はぼうっとあたり霞んですべてが虚ろになってしまう。
わたしは誰かを深く愛していたはずだ。誰かの妻になっていたはずだ。それはアランなのか?わたしの夫はアランだったのか?
違う、違う。思い出せない。
もっと大きく暖かくわたしの全てを包み込んでくれる安堵。身も心も一つに溶け合って愛し愛される喜び。魂の呼び合う者。わたしの半身、心臓の半分。
思い出したい焦燥感で必死に記憶の底から引き出そうとすると大きな哀しみが心を覆う。あまりの哀しさに苦しくなってまた手を放してしまうのだ。
寄せては返す波のように繰り返し繰り返し。月が沈む明け方の白々した中でやっと記憶の糸を辿るのを諦めて疲れ切って鬱々とオスカルは眠りにつく。
その眠気が不思議な効果を醸し出し一瞬正気を呼び覚ますのか。
オスカルは思う。
(わたしはきっととてつもない喪失に耐えられず狂気を願ったに違いない。)
意識の無くなるその瞬間、黒い髪、黒い瞳の恋しい男の姿を見る。
『オスカル!』と呼ぶ狂おしいほど愛しい声を聞く。
手を伸ばし『アンドレ!』と応えようとするも必死の両腕は虚しく空をかき、その朝も眠りという優しくて深い底なし沼へオスカルは引きずり込まれてしまうのだ。
Fin.