なるべく美しい娘じゃないほうがいいって?ふーん。変わってるわね。
 

マダム・シャノワールはジロジロとアンドレを見た。田舎から出てきたばかりというわけでは無い。着てるものはいいモノだし金に困っているふうでもない。ぴったり体に合ってるから仕立て物だわ。まだ、若い。17、8歳ってとこか。たぶん、こういうところへ来るのは初めてなんだろう。
 

 

男の品定めで生きてきたマダム・シャノワールの眼に狂いは無かった。

きっと美人相手じゃ臆してしまうのだわ。でも、はまればいい常連客になるかもしれない。
 

 

「お客様、うちの娘たちはみんな器量もいいけど気立てもいい子ばかりなんでね。慣れてない方でも安心して遊んでいかれるんですよ。おほほ。エレーヌにルネや、おいで。」
 

エレーヌとルネと呼ばれた娘たちがタペストリーで隠された奥の部屋から出てきた。
エレーヌは金髪を結い上げて真っ赤なドレスを着ていた。ルネも同じく金髪だがこちらは髪をおろしてシュミーズドレスだった。 
 

「え?金髪はだめ?そりゃ、またどうして?はあ。幼なじみを彷彿させて嫌だって?おやまぁ。」
マダム・シャノワールは呆れたように言った。
「じゃあ、まだ、新入りだけどヴィヴィエンヌがいいでしょうよ。ヴィヴィエンヌ!ほら、お客さまだよ!」
ヴィヴィエンヌと呼ばれた娘は奥から扇で顔を隠しながら出てきた。
「ヴィヴィ!もたもたしなんさんな!さっさとおいで!」
マダムは娘から乱暴に扇を取り上げた。

 

 

黒い髪に緑の大きな目。見慣れたブロンドの美しい顔とはまったく異質なものだった。
「どう?うちの娘たちはみんな器量よしでしょう?ヴィヴィだったらおにいさんのご要望にぴったり!え?綺麗すぎるって?そこは我慢してもらわなきゃ。おほほほ」

 

アンドレにぐいぐい娘を押しつけながらもマダムはちょっとばかり言い淀んだ。
 

「あの、その、ヴィヴィはちょっとだけ変わったとこあってさ。まぁ、そこもまた、ご一興ってことで。さあさあ、ヴィヴィ、お客さまを奥へお連れして。」
 

ヴィヴィエンヌはそんなマダムの言葉を聞いてか聞かずか、にっこり笑うとアンドレの腕に手を絡ませた。
 

「さぁ、どうぞ。こっちよ。すてきなお客さま。」
アンドレはすでに後悔しはじめていた。俺はどうしてこんなところへ来てしまったのか・・・。

 

 

些細な諍いが事の発端だった。

 

王太子妃マリー・アントワネットさまのパリでの夜毎の遊びの護衛でオスカルが疲れきっているというのも知っていた。神経を研ぎ澄まして務める連夜の警護は若い女の身には過酷だというのもわかっていた。アンドレは毎夜遊びに通う王太子妃をつい恨めしく思うほどだった。

 

その日、アンドレが所用を済ませて近衛兵詰所へ戻ったときオスカルは椅子に座って眠ってしまっていた。そのオスカルを覗き込んでジェローデルが傍らに立っており白い花のような寝顔に今しも触れんとしているかのようにアンドレには見えた。
 

「ジェローデル様!」
 

つい、大きな声を出した。びくっとジェローデルの腕が止まった。アンドレはオスカルとジェローデルの間に割り込むと
「主になにか?」
「・・・。別に。お疲れのようなので仮眠室で休まれてはいかがかと。」
ジェローデルは確かオスカルよりひとつ年下の16歳だったはずだ。まだ幼さが残る美少年だが大人びた口調がかえって小憎らしかった。
心の中の腹立ちは顔に出さず
「それは、ありがとうございます。このあと主は非番ですので。下がらせていただきます。」
アンドレは丁寧にジェローデルに頭を下げた。まだ階級を持たない近衛兵だが彼の家の身分は格別高かった。本来なら平民の自分には口もきけないほどに。
 

うたた寝から目覚めたオスカルは何故二人の男が向かい合って険悪な雰囲気なのか理由がわからなかったがアンドレに促されるまま立ち上がった。

 

二人きりになるとアンドレは言った。
 

「寝るならアントワネットさまに頂いた居室で寝ろよ!」

いつにないアンドレのその口調にオスカルは驚きながらも腹が立った。
 

「寝てはいない!目を閉じていただけだ!」
 

この、負けず嫌いめ!アンドレはムカムカと心の中で思った。
 

「じゃあ、ジェローデルがおまえの寝顔を穴が開くほど眺めていたのをわかっていたのか?」
 

オスカルは一瞬言葉に詰まったが
「ああ!知っていたとも!」
とむこうみずに答えて横を向いた。
 

「なら、余計悪い!」
 

 

オスカルはむすっと腕組みをして押し黙った。

 

 

 


 

 

軍隊で女性が、ましてや人並み以上に美しいオスカルが男として存るのは容易なことではない。常に気を張っていなければなにが起きるかわからない。
 

 

「スキを作るな。おまえ自身にスキがあればおれは守り切れない!」
もっと違う言い方で言おうとしていたのに、オスカルの一番癇に障る言い方になってしまった。だがジェローデルのことを思い返すと腹が立ってならなかった。
 

 

「おまえに守ってもらおうなどと思っていない!」
 

「では、もっと自分で気を付けろ! 」
 

「大したことではないではないか。だいたい、おまえはなにかにつけ気に病みすぎだ。」

 

「用心してそれに越したことはないだろ?」

 

「謝る必要もないのに謝るのも用心か?」
正論突かれたオスカルは話をすり替えた。

 

先ほど回廊の通路でアンドレは後から来たド・ゲメネ公の従者にぶつかられたことを言った。ちょうどその時オスカルはアントワネットの傍らにいたがそれを見ていたのだ。
「無礼者!邪魔だ、下郎。公爵さまのお通りだ。」
その従者はいやな笑いかたをしてアンドレに言った。

アンドレは「お許しを」と言って頭を下げた。

「気をつけろ!」

従者はさらにアンドレの肩を突いて通って行った。
 

 

「あの方は従者といっても貴族だ。」
 

「わたしに言えばいい!おまえへの侮辱はわたしへの侮辱だ!決闘でもなんでもするぞ!」
17歳の若い正義感はすぐに発火する。
 

「それが嫌なんだ!オスカル!おまえは女なんだ。もっと自覚しろよ。よけいな危険は避けろ!」
 

今度こそオスカルは怒髪天を衝いてわなないた。
 

「おまえのような・・・!おまえのような、事なかれ主義の意気地なしに世話など焼いて欲しくない!寄るな!」
 

 

屋敷へ帰ってからも一言もものを言わずオスカルは足音も荒々しく自室へ籠った。いつもなら用もないのに呼ばれるのにその夜はそれもなかった。
 

 

アンドレはオスカルが時折自分が本物の男に成り得ないことで苛立っているのをよく知っている。だから普段そんな言い方をしたことはなかった。

だが、さっきのオスカルの寝顔を覗き込むジェローデルの光景が目に焼き付いて頭から離れなかった。ド・ゲメネの従者の暴言などどうでもよかった。

貴族に貶められることなど慣れていた。しかし、ジェローデルの奴は許せない。突き飛ばしてやりたかった。

あの若造め!

平民でジャルジェ家の使用人でしかない自分にはなにもできないのが悔しかった。
 

 

「女伯爵の尻馬に乗って調子に乗るなよ、平民のくせに。」
宮廷では身分を持たないアンドレを影で罵倒する貴族もいる。

オスカルが王太子妃から格別の寵愛を受けてついでにその従僕までが平民の分際で宮廷に出入りして、お声がけまでしてもらっているということでさらに嫉妬とやっかみを持たれているのだ。

彼らの会話は優雅を装いながら辛辣だ。いかにライバルを噂話と陰口で追い落とすか日々鍛練を重ねている。なにも産み出さず搾取する階級はそれが人生の大部分なのだから。

それにいちいち反応していたらやっていられない、日頃のアンドレならそう流せていた。 

 

 

その夜はひとりパレ・ロワイヤルへ出かけて行った。

「女伯爵さまの夜までおまえの仕事かね?」
「とんでもない!あの美貌の伯爵の従僕なら去勢されてるに違いないよ。男じゃないんだ、こいつは。気の毒に。ははは。」
世にもまれな美しい女主人と若い男の従僕の組み合わせは下衆な妄想と中傷のかっこうネタだ。

平素は忘れようとしていたえげつない貴族たちの陰口が浮かんで消えなかった。

 

男の鎧をまとった冷たい男装の麗人。

けれど最も身近でオスカルを見ているアンドレにはその鎧の下の奥深くに暖かな心と繊細で優しい女らしさが隠されていることを知っている。

そんなオスカルが子供のころからいじらしかった。

幼いころからずっと祖母にお嬢様をお守りするようにと固く言いつけられてきた。

 

それがいつからか義務や責務ではなくオスカルはこの世の中でただひとりの守るべき大事な人、不可侵性の存在になっていた。

愛していたが恋愛とは違うと思っている。というよりも肝に銘じてそう思おうとしているというほうが正しい。

 

17歳の今になってもオスカルは子供の頃と同じように疲れた時や物思いに沈む時並んで座ってアンドレの肩にその金色の頭をあずけてくる。どうかすると行儀悪くカウチの肘掛に足を伸ばして「おい、肩をかせ。」とアンドレにもたれかかる。そんなとき見下ろす額から鼻筋にかけての白い陶器のような肌と長いまつげの影が自分の中にただならぬ感情を湧き上がらせるのをおぼえる。鼓動が激しくなる。昔からの癖でアンドレの胸に額を押し付けて長いため息をつくオスカルをどれだけ抱き締めずにいられるか自信がなくなるときがある。

 

でも、これは恋ではないのだ、オスカルはオスカルなのだとあえて封じ込めている。

 

オスカルを恋愛対象に考えることなど冒涜なのだと思い込もうとしている。

 

 

 

あんな下衆な奴らにわかってたまるか。

「ふざけるな!!」

アンドレは酔ってふらつき歩きながら呟いた。18歳の若い男にまったく女性に興味を持つなというほうが無理だ。パレ・ロワイヤルにはいい遊び所があると遊び好きの近衛兵に聞いたことがあった。行きつけなかったらそれまでだ。でも、行きつけたのなら天の思し召しだろう。

 

そうしてリラの香りがむせるほどあたりにたちこめる春の宵のなか「マダム・シャノワールの館」という売春宿に辿り着いてしまったのだった。

 

 

「さあ、そこに座って。お客様。」
ヴィヴィエンヌは優しく言って自分は寝台の上に座るとアンドレを合い向かいの椅子に座らせた。可愛くて色っぽい声とはこういうものか。
 

「お、俺、やっぱり・・・。」
酒は醒めていた。オスカルと少しでもかぶる女は嫌だと思っていた。

『その最中に』オスカルみたいな女に見上げられでもしたら、後ろめたさと罪悪感で絶対なにもできなくなってしまう。さっきまでそんなことを考えていたのに、今はそれどころではなかった。

ヴィヴィエンヌの潤んだ大きな緑色の目にとらえられると、幸か不幸かなにか考える余裕など無くなっていた。
 

「ふふ。はじめての男(ひと)って、好きよ。」
接吻をしながらヴィヴィエンヌの細い指がアンドレの衣服の釦を外していく。
 

「来て。」
「震えてるのね。怖くないわよ。」
「もっと、もっと優しくして。そっとね。真綿で作った仔馬にさわるみたいにね。強くしたら女は壊れてしまうわ。」
 

 

アンドレはヴィヴィエンヌに導かれるまま動いていく。
「ああ・・・、ああ・・・。そうよ。」
ヴィヴィエンヌはアンドレの指に自分の指を絡めた。
究極のきわ、アンドレの指にちからが入った。

彼は自分が無意識に唇を動かしたことに気づかなかった。


アンドレはぐったりとヴィヴィエンヌの上に覆い被さった。

 

さっきまで言葉巧みにリードしていたヴィヴィエンヌは存在が消えたかのように静かだった。眠ったのか。アンドレはひとりごそごそと身仕度を終えると扉に手をかけた。
 

「行ってしまうの?!」
突然低い唸るような声で問われた。
 

「え?」
アンドレが振り向きざまに、いきなり衝撃が左半面に走った。

ヴィヴィエンヌに拳で顔を殴られたのだ。か弱い小柄の娘の拳とは思えぬ力だった。あまりにもいきなりだったのでよける間もなく頭は扉に打ちつけた。アンドレはへたりこんで顔を押さえた。
 

「痛て・・・。」
ヴィヴィエンヌが両手の拳を握りしめて肩をいからせて立っていた。

素っ裸だった。

なにがなにやらわからないがアンドレは彼女を見上げて思わず
「ごめん。」
と謝った。
さっきまでの悩ましい潤んだ瞳ではなく怒りに燃えた眼差しだった。
 

 

なぜ殴られたのか彼女がなにに怒っているのかも知らない。

でも終えてしまった瞬間から自分が欲望のために女性を抱いたことが後ろめたかった。

酒の勢いと腹立ちのはけ口にしてしまったことが恥ずかしかった。

宮廷の中には金や権力で女を思うようにする傲慢な男がたくさんいる。常日頃、自分やオスカルが最も嫌うところだったはずだ。いたたまれなさと惨めな思いで着替えをしてこそこそ出ていく自分がちっぽけなネズミみたいに思えた。

 

殴られるのは当然のような気がして誰に対して謝っているのかもわからぬまま口をついた。ヴィヴィエンヌの緑の目は幼なじみがなにかで猛烈に怒って睨みつけるときに似てみえた。ぜんぜんオスカルとは違うのに。
 

 

「ごめん・・・。」
ヴィヴィエンヌを見上げてもう一度アンドレは言った。

 

 

 

「あらまあ!ヴィヴィがまたやっちまいましたか。あらあら。」
 

「また?って?」
 

「なんですかねぇ、ヴィヴィを雇ってた宿主たちは手に負えなくてねぇ。店を転々と替わったんでわたしが引き受けたんですよ。あの娘、あの通り器量はいいんだけど客と終わったあとに殴りつけちゃうんですよね。今までどんな目にあってきたのか。あはは。」
 

部屋から飛び出したアンドレは出入口の部屋で菓子をつまみながら酒を飲んでいたマダム・シャノワールに出くわした。
 

「あの子、病気?なのか?」
 

「こんな商売やってればどの子だって多かれ少なかれどっかネジがゆるんできますよ。ヴィヴィエンヌはね、昔の逃げ出した恋人と客がごっちゃになっちゃうんですよ。」
頭の横で指をくるくる回して言った。
 

「そんなことをしていたらいまに客にひどい目にあうだろう?」
 

「そりゃまぁね。でも、どっちだっておんなじさ。首を絞めてくるような変な癖持った客だっているんだからね。それより、お客さん、きっちりやることはやったんでしょ。うちはノークレームノーリターンだからね!金は返さないよ!」
 

「これ・・・。」
アンドレは持っている金を全部出した。
「あの娘、医者に見せてやってくれ。」
 

「はぁ?あんた、変わってるね。」
ちらっと金を見るとせせら笑った。
「そんなはした金じゃあ」
 

「確か病気の売春婦を使う宿主には死刑という法律があったはずだ。」
 

「お、脅す気かい!病気ったって性病じゃないんだから・・・。」
 

「知らないのか?今度の王太子妃さまは母君のオーストリアの女帝陛下ゆずりの潔癖なお方だ。オーストリアでは売春婦には罪の烙印を押して感化院にぶちこむんだそうだ。ましてや病気の売春婦を使ってる宿主なんて役人に知れたら?」
 

 

マダム・シャノワールは二の句がつげなくて口をぱくぱくさせるばかりだった。

 

 

ジャルジェ家の庭のリラも青や紫や濃いピンクの花をたわわにつけて朝の光の中強い香気を放っていた。その薫りに包まれたオスカルは久しぶりにゆっくり眠れて昨日の不機嫌は無かったかのように颯爽と美しかった。
 

 

「アンドレは?まだか?」
 

玄関ホールに立ってオスカルが言っているところへアンドレが走りこんできた。
 

「どうしたんだ?!その顔は?」
 

アンドレの左半面は腫れ赤黒い大きなあざができていた。
 

「・・・昨晩、飲み屋でケンカした。」
ぼそっとアンドレはこたえた。
 

オスカルは「ずいぶんとまあ、派手に活躍したようだな。どら?見せてみろ。」
と言って手を伸ばしてきた。
 

「うわっ!痛いっ!いい!触るなっ!」
 

オスカルはまじまじ見てからぷっと吹き出してそのあとは腹をかかえて笑いだした。
 

「なんだ?」
アンドレは不機嫌に言った。
 

「はは・・・。いや、安心した。おまえでもケンカするのだな、と思って。」
 

「・・・おまえみたいに誰彼かまわずむこうみずにケンカするわけじゃない。」
オスカルをまっすぐ見ることができなくて横を向いて言った。
 

「ははは!言ってろ。そんなにやられてたら何をいってもカッコはつかん!ざまあみろ!」
 

「ふんっ!」
 

 

オスカルが馬車に足をかけたときアンドレはそっとわきを支えた。オスカルはびっくりしたように振り返った。
 

「どうした?」
 

「なにがだ?」
 

「優しいな。」
 

「いつものことだ。」
 

 

オスカルがさらに間近に顔を寄せてアンドレの顔を覗き込んで言った。
「おまえ。なにか変わった気がする。」
「・・・。気のせいだ。」
オスカルはリラの花よりもっといい香りがする。アンドレは思った。

 

 



 

 

 

船底に置かれた大きな棺にはそれとわからぬように黒い布がかかっていた。神父はその前に立つと十字を切って言った。
 

「この方たちを人知れず葬りたいのだ。市民の恩人なのでね。国王側に生死を問わず探索されているから簡単なことではないのだが。」
 

「命にかえましても。」
両手を交差させ胸にあて神父に深くお辞儀をしてヴィヴィエンヌ・キャトルは答えた。
 

 

セーヌ川の河川運送のほとんどがヴィヴィエンヌの夫とその仲間たちによるものだった。
「ご夫婦なのですね。」
 

「ああ。この世の人間の作った法律では結ばれることはなかったので。神の国では一緒にと。ひとつ棺でね。」
 

「本当に助かるよ。マダム。」
 

「いえ、神父さま。わたしにできることなら何なりと。」
ヴィヴィエンヌは大きな緑の美しい目を上げて言った。
 

「運河の船主頭であるあなたの家の船なら役人も荷をあらためるとは言いにくいだろうからね。いつも、困難な依頼をしてしまって申し訳ないが。」
 

「わたしもむかし名も知らぬ人から恩を受け罪深い闇から抜けることができました。すべてを受け入れて愛してくれる主人と知り合えたのもその方のおかげです。その方にまたお会いすることは望むべくもありませんが、せめて困っている方々を少しでもお助けできるなら恩義に報いることになるかと思いまして。」
 

「神もきっとあなたの行いを喜んでおられるよ。マダム。」
 

 

バスティーユ牢獄の戦闘で国王側は最も力弱き身分であるはずの民衆に敗れた。

その敗北の原因の張本人である謀反人の元フランス衛兵隊の隊長、オスカル・フランソワ・ド・ジャルジェは血眼になって探索されている。

けれども、彼女はもはや彼らの手の届かぬ場所にいる。

愛する夫アンドレ・グランディエとともに。

 

そして今、アランとロザリーの手によって永遠の安寧の地へ向かおうとしていた。元娼婦ヴィヴィエンヌ、今の名はマダム・キャトルの夫の船で。

 

神父が船を降りるのを見送るとヴィヴィエンヌは言った。
「では、参りましょう。」
 

 

遠い日のリラはもう薫らない。

今はさわやかな夏の風だ。船は静かにセーヌを遡り始めた。

 

 

昨日バスティーユの上に立った白旗が遠く、まるで彼らに別れの手をふるかのように翻っていた。

 

 

 

 

                     Fin