割れたワイングラスとこぼしたワインをふき取った布は屋敷の庭の一番隅へ埋めた。

 

深く穴を掘った。

屋敷で飼っている動物たちが万一掘り起こすと危ないからだ、そう自分に言い訳をした。

本当は自身の罪が永遠に暴かれることがないよう地中深く埋めたかった。

 

『卑怯な奴』

そう自分を思いながら唇を噛みさらに掘り続けた。

 

ガツッとスコップがあたった。

穴の底は岩盤だった。これ以上は無理だ。

布袋に入れたそれらを穴の中に落とした。

 

 

 

酷い男だ、俺は。最愛の人に使おうとしたのが馬の薬だなんて。

 

 

以前、ジャルジェ家にアジュールという名の馬がいた。

気の優しい雌馬でアジュールは子どもでも危なく無く乗れた。オスカルと俺はアジュールで馬の稽古をした。

 

アジュールに乗ってこっそり屋敷を抜け出したこともあった。オスカルと俺を乗せてアジュールは風のように走ってくれた。

もっとも屋敷へ戻ってきてから俺たちはこっぴどく叱られ、アジュールも申し訳なさそうに俺たちと一緒になって頭を垂れていた。アジュールは俺たちに乗馬だけでなく馬との友情も教えてくれた。

 

 

やがてアジュールは年を取り病気になった。オスカルが士官学校へ通い出した頃だ。

「アジュールはお腹のなかに悪いできものができてしまったんだ。こうなるとどうしてやることもできないんだよ。」

気の毒そうにアジュールを診察した獣医は言った。

 

「もう、ずいぶん苦しんでいるからひと思いに楽にしてやるのがアジュールのためだと思うよ。」

オスカルの顔色が変わった。

 

「もう、おまえは寝ろよ。あとは俺が見てるから。」

俺は言った。

「いやだ!僕も一緒にいる。」

「おまえは明日も学校だろ。俺がちゃんと見るから。大丈夫だから。」

「アジュールを・・・、銃で撃ったりしないよな?!」

「そんなこと俺にはできないよ。今晩は俺がアジュールを見るからさ。さあ、行って。」

振り返り振り返りそれでも迎えに来た侍女に促されオスカルは部屋へ戻っていった。

 

オスカルはきっと眠れないだろう。銃声が聞こえやしないかと耳をすませているだろう。

銃で撃つのはだめだ。オスカルが悲しむ。

 

オスカルの姿が見えなくなってから獣医に頼んだ。

「銃で撃つ以外にありませんか?」

「毒を使うんだ。ただ飲みたがらないだろうからね。うまく飲ませないと苦しませることになるよ。」

獣医は紙で包んだ薬を見せてくれた。

「俺が飲ませます。もう、これ以上苦しませたくないから。」 

「じゃあ、砂糖水に溶かして少しずつスプーンで口に入れてやって。たぶんひと包みで済むと思うけど。念のためもうひと包み置いていくよ。」

「一人で大丈夫かい?」

「大丈夫です。一人でやらないとオスカルは勘がいいから。わかってしまうから。」

「そうか。君は勇敢だな。手に負えないようだったらまた呼んでくれ。」

そう言うと俺の肩をぽんとたたいて獣医は帰って行った。

 

 

アジュールは苦し気な息のたびに横たわった胴が上下していたが最後のひと匙を喉に流し込んだあと、動きはゆっくりになりひとつ大きく息を吐いて動かなくなった。

 

血を吐くのだろうか?激しく痙攣するのだろうか?苦しくて暴れたら?と恐ろしかったがアジュールの最後はとても静かだった。

 

最後まで俺を信じておとなしく薬を飲んでくれた。

それを飲めば俺が苦しみを取り除いてくれると信じていたんだろう。

 

オスカルの部屋は屋敷の奥だから聞こえるはずはない。それでも俺はアジュールの首を抱いて嗚咽が漏れそうになるのを必死に我慢した。

 

 

 

翌朝早く、藁の上に横たわるアジュールとそばに座って胴を撫でる俺を見て走ってきたオスカルはぴたっと立ち止まった。

 

そして、こわばった顔でじっと俺たちを見下ろした。

 

「僕は武官だから悲しんじゃいけないんだ。戦場では軍馬もたくさん死ぬんだ。」

握り締めたこぶしが震えていた。

 

「そうだね。でもアジュールは俺たちの友だちだから泣いてもいいんじゃないか。」

オスカルは堪えきれないというように座り込むとアジュールを抱きしめて声をあげて泣いた。

 

俺は泣いているオスカルの背中をさすってやるしかなかった。

 

 

アジュールに飲ませた薬の残りをそのままずっと持っていた。

もしもまた、オスカルの愛馬を殺さなければいけなくなったときのために。銃で撃たなくていいように。眠るように安らかに逝かせてやるために。

なによりもオスカルに辛い思いをさせないために。

 

そう思って隠し持っていたのに。

その薬でオスカルの命を奪おうなどと俺が思うとは。

 

思いとどまれて良かった。本当に良かった!

涙が幾筋も滴り落ちた。

 

 

真に罪を悔いるならばオスカルにすべてを告白しオスカルの裁きを受けるべきだ。

その時オスカルと俺の間に長年積み上げてきた信頼と友情が崩れ落ちる。

以前一度オスカルは俺を許してくれた。まるで獣のようになって襲いかかったあの夜のことを。

 

オスカルは今度こそ俺を許すはずがない。命を奪おうとしたのだから。

失望と怒りでオスカルは俺を屋敷から追い出すだろう。いや、主の命を狙ったかどで突き出され絞首刑かもしれない。

 

 

だから俺はオスカルに懺悔することができない。オスカルから離れない。ただ死ぬことは出来ない。身勝手だとわかっている。俺の身など贖いにもならない。それでもオスカルを守るためだけにこの身を捧げる。俺の命にかえて守る。

おれの息があるかぎり。

 

神に誓う。

 

たとえ、オスカルが誰かの妻になったとしても。

それがどんなに苦しくとも、どんな形であっても。

オスカルの傍を離れはしない。

 

きっと守り抜く。

 

 

最後の土をかけた。

そこにはまるで暗い穴などなかったかのようにいつもと同じ静かな木立に戻った。