読み手と書き手の異なる立場について | 僕がここにいる不思議

僕がここにいる不思議

猫腰を抱えた犬(gear)の雑記

先日、「恐怖のナポリタン」なるコピペを発見。

遅ればせながら興味深い。

やはり触れずにはいられない。

以下、出し手とは、「恐怖のナポリタン」を書いた人。(もしくはそれに類する人)


気になる問題のひとつは、

「ほとんどの人が、オチはないと割り切ったのではないだろうか?」

ということ。

これは、

「いくつか提示されている回答を、”出し手が想定したオチである”と、信じている人は少数ではないか?」

ということであり、

「回答を提示した本人すらも、”出し手が想定したオチである”と、信じている人は少数ではないか?」

ということ。

”オチはない”証拠はないのである。

もちろん”オチがある”証拠もない。

しかし、ある人は、オチはないと割り切るのである。

実に興味深い。

(逆に”出し手が想定したオチである”と自信をもっている人もおられるようだが、絶対数はいかほどなのだろうか?

これも気になる)


もうひとつ気になる問題は、やはり、

「出し手は、何を思ってこの文を作成したか?」

ということである。

何か本当のオチがあるのか?

だとしたら、それはどんなものなのか?

もしくは、まさにこの状況が狙った通りなのか?

これまた、だとしたら、下地なしでこの文を書いたのか?

英語の直訳だったのか?

など、疑問は尽きない。


なんにしても、書き手は、何かしらの動機があるのだ。

それを公表するかしないかは、ともかくとして。


では、この記事の動機はなにか?

簡単じゃないか、つまり・・・。


おしまい