令和4年8月1日(月)
お早うございます。

暑中お見舞い申し上げます。
 例年にないほど厳しい暑さが続いておりますが、いかがお過ごしでしょうか。
 お陰さまで私はつつがなく暮らしております。
 酷暑の折柄、くれぐれもご自愛のほどお祈り申し上げます。


77年前の1945年8月1日はどんな日だったんでしょうか。
長岡空襲(ながおかくうしゅう)
第二次世界大戦(大東亜戦争)末期の1945年8月1日の日本時間午後10時30分から翌8月2日の未明午前0時10分の間に、アメリカ軍により行われた空襲。
新潟県長岡市の中心部市街地を標的に焼夷弾が大量に投下された。
これにより中心部市街地の約8割が焼失し、長岡市長だった鶴田義隆を含む1480人余りの市民が死亡した。罹災戸数は11986戸にも及ぶ。

長岡空襲により焦土となった長岡市中心部。長岡市殿町から長岡市表町をのぞむ。

 1945(昭和20)年7月20日、左近地内に1発の爆弾が投下されました。長岡に投下された初めての爆弾でした。
 その12日後、8月1日の午後9時6分、長岡の夜空に警戒警報のサイレンが鳴り響きました。続いて午後10時26分、警戒警報は空襲警報に変わり、直後の10時30分にB29による焼夷弾(しょういだん)爆撃(ばくげき)が始まりました。
 B29は一機また一機と焼夷弾を投下しました。
夜間低空からの容赦無い無差別爆撃によって、長岡のまちは瞬(またた)く間に炎に包まれていきました。
猛火の中を、母の名を呼び、子の名を叫んで逃げ惑う人びと。
多くの人が炎に飲み込まれていく様子は、地獄絵さながらだったといいます。
空襲は、8月2日の午前0時10分まで続きました。
1時間40分に及ぶ空襲で、市街地の8割が焼け野原となり、1,488人の尊(とうと)い生命が失われました。
 925トンものE46集束(しゅうそく)焼夷弾等が投下され、163,000発余りの焼夷爆弾や子弾(しだん)が豪雨のように降りそそぎ、長岡を焼き払ったのです。当時の市域で、焼夷弾の落ちなかった町内はないといってよいほどすさまじい空襲でした。

長岡空襲で焼け野原となった長岡市の中心部。
後ろに見える建物は当時の長岡郵便局。(長岡戦災資料館所蔵)