令和4年4月15日(金)
お早うございます。

今日は戦後 日本の電力復興、再編成に大きく貢献した,
「元GHQ エアーズ大佐の貢献 その4」を掲載いたします。

ハワード・エアーズ氏 (本人)
サラ・B・ヘージ・エアーズ(妻)
左から3人の子供
ジョン・R・エアーズ (二男)
パトリシア・エアーズ・ガルッチ(長女)
ハワード・エアーズ・ジュニア (長男


<エアーズ大佐の略歴>つづき
 エアーズ大佐は戦争が終わる前に海外での勤務につきたいと希望していた ので、太平洋戦域での従軍申請をしていた。
ダグラス・マッカーサー将軍が上級部隊の本部経験があり、カンサス州フィートリーブンワースの幹部学校 (CGSC)で教育を受けた高級将校を探しているとの情報が入った。
エアーズは CGSC出身ではなかったが、その他の点では十分な適格性があった。
このため1945年8月5日より同校に入学するよう命令が出された。
CGSCを優 秀な成績で卒業。
1945年11月20日サンフランシスコを出発、1945 年12月10日フィリピン群島のマニラに着任した。

 連合軍最高司令官総司令部(GHQ SCAP)、すなわちマッカーサー司令 部の訓練部長兼参謀三部(G-3) 部長補佐に任命された。
GHQ SCAPがマニラから日本の東京に移されたのに伴い、エアーズも1946年2月5日 東京着任。
そのすぐ後、組織・装備局長兼務となった。
訓練部長としては二つの重大問題に直面した。
その一つは、45万人の戦歴の兵士が帰郷以外の何物 も望んでいなかったことである。
第二は、占領軍の交代要員の訓練にわずか四 週間の期間しかなかったことで、実は彼が準備していたマッカーサー将軍のラ ジオメッセージでは、16週間以上の個別訓練を明示していたのである。
将 軍は、一人でも血の通った人間がいる方が誰もいないよりいいさとして、まず とっつかまえてそれから訓練する、という方針を示した。

 陸軍省の考え方では、マッカーサー将軍の軍司令部は大きすぎた。
陸軍省人事局はG-3には大佐が多すぎるとの結論を下した。
エアーズは予備役大佐で あり消耗品であった。
占領期間中にまだやるべきことが沢山あったのでエアーズは新しい任務を 求めた。

(日本は電力が不足していた。電力は割当制だった。) こうして対日占領の民生部門(軍人や文官が仕事に当たっていたが)である経済科学局ガス・電気課に職を得た。

 1925年にパデュー大学を卒業後、エアーズはノーザン・インジアナ・ガ ス・アンド・エレクトリック社(後にノーザン・インジアナ・パブリック・サービス社(NIPSCO)と改名)に就職、平均より高い賃金を受けていた。(学士の給料は普通で一カ月100ドル前後だったが、エアーズは150ドルの月給を得ていた。1925年9月から1940年まで、同社で販売、輸送、請求、 統計分析・企画・報告、料金分析・改定・新料金体系作成、予算作成、大型(5,100万ドル以上)の借り替え、安全の各業務分析で実質的な責任を負う立場 であった。
これらを通じて、顧客、従業員、管理、法律、いかさま師、公益事業経済、寡占と監督官庁の関係などについて経験を蓄積した。
このようにガス・電力事業についての文民としての基礎があったため、上官に対しても、戦争に負け意気消沈した日本の人々や産業、経済に対しても、電力不足下で行われるすべての労働に対して特段役に立つことが出来るであろうと感じていた。
電力は「割り当て」られ、婉曲に「配給」と呼ばれていた。
割当量を超えて電力を使用した者は、その超過使用分について、割当電力コストの二倍以上の罰金を日本政府により徴収された。
エアーズ大佐は、「経済科学局長電力問題特別顧問」に就任 した。
彼は日本人の一部から折に触れて尊敬を込めて「日本の電力の専制君主」 と呼ばれた。
自ら機器を求め管理体制を整備するため日本全国に出かけ、管理者のやる気を回復させ、資材を利用して修理や再建に役立たせることに第一の責任を尽くした。進んで物事をやろうという熱意が全体にないという状態が続いていた。
相手は敗戦国民であった。電力不足を緩和するために出来る事さえしよ うとしなかった。

 第二次世界大戦以前の発電は、ほぼ90%が水力、20%が火力(主として、 満州、樺太、海南島産の石炭による)であった。
日本国内産の石炭は一般に低品位で、燃えがらが極めて多く、熱量(英熱量単位一BTU)が低かった。第 二次世界大戦後は、従来の良質炭の産炭地を日本は失った。石炭価格は、トン当たり3.5 ドル前後から同30ドルないしそれ以上に急騰した。
火力発電所 の操業は赤字となり。
そのため一般には使われなかった。
こうして我々の調査では、戦後の発電は水力が97%を占め、火力はわずか3%となった。
経済的 に引き合わないとされ発電をやめた17%分の火力が不足分に当たった。
この 非利用状態を改め、恐るべきインフレ(円相場は戦前 1ドル=4円前後から占 領3・4年目には同360円に下落した)の下で必要となった電力会社の増収を図るためには、電力料金の値上げが必要だった。
エアーズ大佐は、日本全国の当時あった電力料金体系を検討した結果、それが時代遅れであることに気付いた。
彼は、およそ六週間のうちに計算を終え新料金体系を作りあげた。
これ は、近代的な料金技術と実践に基づいたもので、小口の均一料金消費者と最大級のメガワット級の産業消費者を網羅し、九つの地域的な電力会社と極めてわずかの非常に狭い地域に供給する電力会社からなる日本の電力業界全体を対象にしていた。

 この料金表は、各会社にとって配給電力料金の約33%値上げをもたらすも のであった。
同料金はまた、電力不足解消のための革命的ともいえる条項を含 んでいた。
電力消費者が割り当て電力以上の使用を望む場合には、割り当て料金のほぼ 2,25倍の料金を払えば、罰則なしに希望通りにできるという規定がそれである。
このことは、追加電力により高い料金を払う価値があるかどう かの判断を消費者にまかせたものであり、またそれだけの電力を生産するため普通より高い原料を使用した電力会社に対しては、適切に補償をするということであった。
この新料金体系は1949年12月に発効した。
これは電力不足 の根本を解決した。
それは、電力需要の増加に対応するため新しい発電所・配電用の諸設備を建設する電力会社に適切な代償手段を与えた。戦後日本の経済と工業の拡大のための基礎作りが行われたのである。

大正元年(1912年)の1年前(明治44年)に刊行された『東京風景』掲載の、日本橋の街並み。
ずらりと並ぶ電柱や路面電車が写っている。(出典)国立国会図書館デジタルコレクション


大正3年(1918年)刊行『日本名勝旧蹟産業写真集. 近畿地方之部』より、大阪市・難波橋通の様子。(出典)国立国会図書館デジタルコレクション

大正時代に入ると、近代産業の発展にともない、東京駅の開業、タクシーの営業開始など、交通網がさらに発達していきます。
ガス、電気、水道などのインフラ整備も本格化しました。
百貨店の登場、洋服や洋食の普及なども含め、今日に通じる都市生活の原型はこの頃できあがったのです。


三谷祭 海中渡御 平成21年10月18日撮影 西区 恵比寿の山車