令和3年8月5日(木)
お早うございます。

76年前の1945年8月5日はどんな日だったんでしょうか。
鉄道の旅も命がけ 「湯の花トンネル襲撃事件」で犠牲になったのは60人以上と言われる。

■3日前の空襲に続く悲劇
3日前の東京・八王子空襲で不通になっていた中央本線が8月5日、運転を再開した。
この日の午後0時20分ごろ、浅川駅(現・高尾駅)を発車した新宿発長野行きの下り列車(8両編成)は乗客を満載していた。
八王子市の湯の花トンネル付近にさしかかったところで、アメリカ軍戦闘機P-51が上空から機銃掃射を浴びせる。「湯の花トンネル襲撃事件」で犠牲になったのは60人以上と言われる。
後ろから3両目に乗っていた降旗昭次さんは、窓の外にP-51戦闘機が飛んできたのを見ていた。
「敵機だ」
その人が叫んだ。私も目を向けた。
まさしくP51であった。裏高尾の狭い谷あいを列車に並行して飛んでいる。
まさかと思っていた私たちは驚き、大きなどよめきと動揺が車内全般に起こった。
間もなくP51が右旋回して、第一回の銃撃が行われた。列車は少し蛇行して止まった。
「機関車がやられたらしい」という声が聞こえた。

湯の花トンネル

つかの間のことだった。P51が窓いっぱいにこちらに向かって突進してくる。
操縦士の顔まではっきり見える。
私はとっさに通路の床に伏せた。
と同時に「ダダダ……」と機銃音と共に、列車の窓より下の側板から弾が入ってくる。
悲鳴があちこちから聞こえてくる。
しばらくすると、伏せた私の背中に人が乗りかかってきた。
「伏せるならばもっと低いところにすればよいのに」と思ったが、無我夢中だった私には、それをよける余裕がなかった。
そのままの姿勢でじっと堪えていた。
何回か銃撃が繰り返されていたが、その途中で飛行機の間隔が長く感じられてきた。
「今だ」私は車内より脱出するため、起き上がった。
そのとたん、私の背に伏せていた人がゴロンと転がった。
男の人だった。もう息はなかった。
思わず、「ぎょっ」としたが、それにかまう余裕もなく列車の窓から飛び降りた。

慰霊碑

トンネル近くには現在、慰霊碑が建っている。
この当時、夜中に爆弾を投下するアメリカ軍の空襲とともに、白昼に列車を襲う機銃掃射も、一般市民にとって脅威だった。
『ガラスのうさぎ』がベストセラーになった高木敏子さんは女学校1年生(現在の中学1年)。この日、神奈川県の国鉄二宮駅で機銃掃射に遭い、父を亡くしている。3月10日の東京大空襲で母と妹を失ってから2カ月後のことだった。
「お父さん、お父さんどうしたの」と父の肩をゆすった。
でも父の大きな体はびくっとも動かない。
右のこめかみの所から、どぐどぐ血が流れている。
青黒い顔をして、目はあいたまま返事をしない。父は死んじゃったのかしら、そんなはずはない。
私一人残して死ぬはずがない。私は下唇を痛い程嚙んだ。
そうしていないと声を出して泣き出してしまいそうなので。
でも、目はもういうことをきいてくれない。
(中略)あっちから、こっちから、「親が死んだらしいよ」「可哀いそうに」「まだ子供なのに、だれかいないか」という声が聞こえてくる


■前夜
南太平洋に浮かぶマリアナ諸島の一つ、テニアン島。1944年の戦闘でアメリカ軍が日本から奪ったこの島で、第509混成部隊の隊長、ポール・ティベッツ陸軍大佐は、出撃の時を待っていた。彼の母「エノラ・ゲイ」の名をつけた爆撃機B-29と、組み立てを終えた総重量5トンのウラン235爆弾「リトル・ボーイ」とともに。
作戦に関わる隊員が、クレヨンで爆弾に走り書きをした。
中には日本人への下品な言葉も含まれていた。
ティベッツは出撃前に仮眠を取ろうとしたが眠れなかったという。

ポール・ティベッツ(中央)とともに出撃する隊員

レーダー技術士ジョー・スティリボックはテニアン島のカトリック教会を訪れ、現世のあらゆる罪を清めてほしいと神父に頼んだ。離陸失敗、空中爆発など、万が一の心構えを整える儀式だった。ティベッツ大佐は混成部隊の従軍牧師ウィリアム・ダウニーを訪ねていた。
様々な意味で歴史が変わる日が訪れようとしていた。

(8月6日につづく)