平成30年4月28日(土)
お早うございます。
昨日(4/27)は、午前10時より、議会運営委員会理事会が開かれました。
5月臨時議会に提出される議案の説明とその審査方法及び日程等が主な議題です。
5月臨時議会は、5月14日(月)、15日(火)の両日に開かれます。
平成30年度に向けて議会人事も議題に上っています。
議長、副議長、各常任委員会のメンバーや正副委員長等々、役職が入れ替わります。
第一会派の自民党蒲郡市議団に、その調整役を任されましたので、
自民党蒲郡市議団幹事長、議会運営委員会委員長の、私、竹内しげやすが、今、調整させて頂いています。
平成30年度の正副議長が誰になるのか、もう少しお待ち下さい。
さて、今日は昨日(4/27)の中日新聞に掲載された記事を紹介いたします。

東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小の児童二十三人の遺族が、市と県に約二十三億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、仙台高裁は二十六日、震災前の市や学校の防災体制について初めて過失を認定した。一審判決を変更し、浸水予想区域外にあった大川小への津波襲来の危険性は予見可能だったと判断。賠償額も約一千万円増額し約十四億三千六百万円の支払いを命じた。
判決理由で小川浩裁判長は「大川小が津波浸水予想区域に含まれていないとしても、北上川近くにあることから津波の危険性はあり、十分に予見できた」と言及。市が大川小を津波の避難場所に指定していたことも「誤りだった」とした。
大川小の危機管理マニュアルについては「避難場所や経路、方法をあらかじめ定めておくべきだった」と不備を指摘。市教委が各学校の実情に応じてマニュアルを改定する期限とした二〇一〇年四月末までに、校長らは改定する義務があったのに「市教委も不備を指導しなかった」と批判した。
マニュアル上で、大川小から約七百メートル離れた標高二〇メートル超の高台を避難先に指定していれば、津波を回避できたと判断した。
判決によると、大川小の児童は一一年三月十一日の地震発生後、校庭に避難。その後、教職員が高さ約七メートルの堤防付近に誘導しようと移動した直後に津波が押し寄せた。同小の犠牲者は児童七十四人、教職員十人に上った。
蒲郡市も再度、各小中学校の「危機管理マニュアル」を再点検をして、いざという時の備えを万全にして頂きたいと思います。
<東日本大震災> 大川小学校の悲劇
2011年3月11日午後2時46分の大地震直後、石巻市大川小学校の生徒たちは、担任教諭に率いられて校舎から校庭へ移動。その時既に保護者の迎えの車が5~6台到着していた。2時52分、高さ6mの大津波警報発令。クラス担任が生徒全員の点呼を取った後、校舎内はガラスが飛散して危なく、裏山は急斜面で足場が悪いので、200m西側の新北上大橋のたもとにある小高い所を避難場所として目指す事になった。教諭たちに率いられて小学校生徒たちは列をつくって校庭から山際沿いに出た。その直後、ゴーと恐ろしい音がした。北上川から溢れ出た巨大な津波が全域を襲い、生徒たちは、列の前方から波に飲み込まれた。後列の教師と生徒たちは、裏山を駆け上り、数人は助かった。その大津波は2階建ての校舎の屋根を乗り越え、高さ10mまで遡上。この日、学校長は不在。追波湾(おっぱわん)北上川河口から4km離れた大川小学校。その付近の釜谷(かまや)地区住民の4割189名が、この大津波で死亡した。「まさか、こんな所まで津波が押し寄せるとは、思いもしなかった」と、生き残った教諭は震災後、詳しい状況を話した。

宮城県石巻市大川小学校生徒108人中68名死亡、6名行方不明。11名の教諭の内9名死亡、1名行方不明。大津波の翌日の釜谷地区は、1cmから50cmほどの泥が全体をおおい、学校付近まで冠水。裏山の麓から約30名、校舎内や1km上流で何人かの遺体が発見され、富士川を堰き止め、その川底を掘り起こし捜索する事態となった。

3時10分ごろ、車で到着した大川小学校へ通っていた児童の母親によると、校庭には100人以上の児童と住民がいて、教頭が学校の裏山を指差し、4~5人の住民に問いかけていました。教頭は、「この山に子供たちを上がらせても大丈夫でしょうか?」「崩れる山ですか?」と、その場にいた住民に尋ね、住民たちは、「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていた様子だった。その時の話しを聞いていた児童の母親は、そのように記憶していた。生き残った教諭は、「この時、山へ上がるべきですと強く教頭に言っていれば、このような事態にならなかった」という内容の手紙を、被災後、学校長へ何度も送り、後悔している事を手紙で伝えた。

震災後、生き残った生徒たちによる筆記を基に報告書が作成された。高学年の2人の生徒は、「山へ逃げた方がいい」という教頭と、「津波がここまで来るはずがない」と言う住民がケンカをしていた。他の生徒は、「住民は、堤防道路への避難を提案していました」と文章で表現した。これらの話が本当か。新聞社の記者が、その3人の生徒に確認したところ、「見ていません」「後で人から聞きました」と答えた。これには子供による記録は証言になりえるか、という問題と曖昧性がある。ヘルメットを被っていたため、頭が浮いて助かった子供も何人かいた。
石巻市長や市教育委員会による被害者親族への説明会報告書には、津波が来た12分前の「3時25分ごろ学校で避難し始めた」と記されてあるが、津波に襲われる2分前に車で学校へ到着した母親によると、「3時35分ごろ、学校へ到着した時、教員たちは点呼中だったり名簿の記録中だったりで、まだ避難していなかった」。その場に居合わせた生徒とその親によれば、「津波に襲われる1分前、3時36分に生徒たちは避難し始めた」という事が、この時の事実であり、真相だった。
地震直後のパニック状態とは言え、津波に対する認識の甘さと、避難行動の遅れが明暗を分けたと思います。
常日頃の備え、心構えが大事であると痛感させられます。
「津波てんでこ」・・・津波がきたら、まずはにげるんだ(てんでばらばらに)!・・・釜石の奇跡
釜石市の鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動した。日頃から一緒に避難する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後に続いた。
この両方の出来事は対照的な出来事だと思います。
「津波てんでこ」その教えがあれば、防ぐことのできた「大川小の悲劇」だと感じました。
お早うございます。
昨日(4/27)は、午前10時より、議会運営委員会理事会が開かれました。
5月臨時議会に提出される議案の説明とその審査方法及び日程等が主な議題です。
5月臨時議会は、5月14日(月)、15日(火)の両日に開かれます。
平成30年度に向けて議会人事も議題に上っています。
議長、副議長、各常任委員会のメンバーや正副委員長等々、役職が入れ替わります。
第一会派の自民党蒲郡市議団に、その調整役を任されましたので、
自民党蒲郡市議団幹事長、議会運営委員会委員長の、私、竹内しげやすが、今、調整させて頂いています。
平成30年度の正副議長が誰になるのか、もう少しお待ち下さい。
さて、今日は昨日(4/27)の中日新聞に掲載された記事を紹介いたします。

東日本大震災の津波で犠牲になった宮城県石巻市立大川小の児童二十三人の遺族が、市と県に約二十三億円の損害賠償を求めた訴訟の控訴審判決で、仙台高裁は二十六日、震災前の市や学校の防災体制について初めて過失を認定した。一審判決を変更し、浸水予想区域外にあった大川小への津波襲来の危険性は予見可能だったと判断。賠償額も約一千万円増額し約十四億三千六百万円の支払いを命じた。
判決理由で小川浩裁判長は「大川小が津波浸水予想区域に含まれていないとしても、北上川近くにあることから津波の危険性はあり、十分に予見できた」と言及。市が大川小を津波の避難場所に指定していたことも「誤りだった」とした。
大川小の危機管理マニュアルについては「避難場所や経路、方法をあらかじめ定めておくべきだった」と不備を指摘。市教委が各学校の実情に応じてマニュアルを改定する期限とした二〇一〇年四月末までに、校長らは改定する義務があったのに「市教委も不備を指導しなかった」と批判した。
マニュアル上で、大川小から約七百メートル離れた標高二〇メートル超の高台を避難先に指定していれば、津波を回避できたと判断した。
判決によると、大川小の児童は一一年三月十一日の地震発生後、校庭に避難。その後、教職員が高さ約七メートルの堤防付近に誘導しようと移動した直後に津波が押し寄せた。同小の犠牲者は児童七十四人、教職員十人に上った。
蒲郡市も再度、各小中学校の「危機管理マニュアル」を再点検をして、いざという時の備えを万全にして頂きたいと思います。
<東日本大震災> 大川小学校の悲劇
2011年3月11日午後2時46分の大地震直後、石巻市大川小学校の生徒たちは、担任教諭に率いられて校舎から校庭へ移動。その時既に保護者の迎えの車が5~6台到着していた。2時52分、高さ6mの大津波警報発令。クラス担任が生徒全員の点呼を取った後、校舎内はガラスが飛散して危なく、裏山は急斜面で足場が悪いので、200m西側の新北上大橋のたもとにある小高い所を避難場所として目指す事になった。教諭たちに率いられて小学校生徒たちは列をつくって校庭から山際沿いに出た。その直後、ゴーと恐ろしい音がした。北上川から溢れ出た巨大な津波が全域を襲い、生徒たちは、列の前方から波に飲み込まれた。後列の教師と生徒たちは、裏山を駆け上り、数人は助かった。その大津波は2階建ての校舎の屋根を乗り越え、高さ10mまで遡上。この日、学校長は不在。追波湾(おっぱわん)北上川河口から4km離れた大川小学校。その付近の釜谷(かまや)地区住民の4割189名が、この大津波で死亡した。「まさか、こんな所まで津波が押し寄せるとは、思いもしなかった」と、生き残った教諭は震災後、詳しい状況を話した。

宮城県石巻市大川小学校生徒108人中68名死亡、6名行方不明。11名の教諭の内9名死亡、1名行方不明。大津波の翌日の釜谷地区は、1cmから50cmほどの泥が全体をおおい、学校付近まで冠水。裏山の麓から約30名、校舎内や1km上流で何人かの遺体が発見され、富士川を堰き止め、その川底を掘り起こし捜索する事態となった。

3時10分ごろ、車で到着した大川小学校へ通っていた児童の母親によると、校庭には100人以上の児童と住民がいて、教頭が学校の裏山を指差し、4~5人の住民に問いかけていました。教頭は、「この山に子供たちを上がらせても大丈夫でしょうか?」「崩れる山ですか?」と、その場にいた住民に尋ね、住民たちは、「ここまで津波が来るはずがないよ」「大丈夫だから」と答えていた様子だった。その時の話しを聞いていた児童の母親は、そのように記憶していた。生き残った教諭は、「この時、山へ上がるべきですと強く教頭に言っていれば、このような事態にならなかった」という内容の手紙を、被災後、学校長へ何度も送り、後悔している事を手紙で伝えた。

震災後、生き残った生徒たちによる筆記を基に報告書が作成された。高学年の2人の生徒は、「山へ逃げた方がいい」という教頭と、「津波がここまで来るはずがない」と言う住民がケンカをしていた。他の生徒は、「住民は、堤防道路への避難を提案していました」と文章で表現した。これらの話が本当か。新聞社の記者が、その3人の生徒に確認したところ、「見ていません」「後で人から聞きました」と答えた。これには子供による記録は証言になりえるか、という問題と曖昧性がある。ヘルメットを被っていたため、頭が浮いて助かった子供も何人かいた。
石巻市長や市教育委員会による被害者親族への説明会報告書には、津波が来た12分前の「3時25分ごろ学校で避難し始めた」と記されてあるが、津波に襲われる2分前に車で学校へ到着した母親によると、「3時35分ごろ、学校へ到着した時、教員たちは点呼中だったり名簿の記録中だったりで、まだ避難していなかった」。その場に居合わせた生徒とその親によれば、「津波に襲われる1分前、3時36分に生徒たちは避難し始めた」という事が、この時の事実であり、真相だった。
地震直後のパニック状態とは言え、津波に対する認識の甘さと、避難行動の遅れが明暗を分けたと思います。
常日頃の備え、心構えが大事であると痛感させられます。
「津波てんでこ」・・・津波がきたら、まずはにげるんだ(てんでばらばらに)!・・・釜石の奇跡
釜石市の鵜住居(うのすまい)地区にある釜石東中学校。地震が起きると、壊れてしまった校内放送など聞かずとも、生徒たちは自主的に校庭を駆け抜け、「津波が来るぞ」と叫びながら避難所に指定されていた「ございしょの里」まで移動した。日頃から一緒に避難する訓練を重ねていた、隣接する鵜住居小学校の小学生たちも、後に続いた。
この両方の出来事は対照的な出来事だと思います。
「津波てんでこ」その教えがあれば、防ぐことのできた「大川小の悲劇」だと感じました。