三谷祭の起源は・・・
今から約300年程前の元禄九年(1696年)八月の或る夜、三谷村の庄屋“武内佐左衛門”は、不思議な夢を見ました。その夢とは「この郷の産子神である八剱大明神が、村の東辺の若宮八幡(若宮神社)へ渡御なされた。」というもの。
まさしく神のお告げであると、早速神輿を設え、重陽の節句(九月九日)に神幸(じんこう・神の行幸の意。祭事や遷宮などで神体がその鎮座する神社から他所へ赴くこと)の儀式を行った。
これが「三谷祭」のはじまりと言われています。

三谷祭を分かりやすく説明しますと・・・
試楽祭(宵祭り、現在は土曜日)に「東区の神船若宮丸(応仁天皇)が八劔神社に赴き、日本武尊(やまとたけるのみこと)に東宮に遊びに来るよう挨拶に行き、神幸祭(本祭、現在は日曜日)に「前日応仁天皇から誘いを受けた日本武尊が快諾してお客に行く」というものであります。

今日は北区の在りし日の写真を紹介いたします。

 北区の山車である「三蓋傘の山車」は、山車の前面の山車幟に三つの傘を末広がりに組み合わせて、その象徴としている。四方四面の欄間の彫刻は、楠正成・正行公の太平記の史実を、見事に浮き彫りにしており、近江の国醒ヶ井の住人、彫刻師、八代森丹渓の名作であります。





上区、西区の山車が海中渡御中です。北区の山車がいよいよ海中渡御を始めるところです。