<英霊の言乃葉 おぞうにを食べたい>を紹介いたします。
従軍看護婦 山本一子 命 昭和20年8月13日 ミンダナオ島にて戦病死 兵庫県出石町出身 32歳

 お正月を赤道直下の危険千万な所で迎へ、お祝ひのお餅はラバラウルを出発しますさい、兵隊さん達のお心づくしのお餅を戴き、感謝の中に出発しました。お船の中は何もなく、こちらに上陸しましてから一個戴きましたが、焼くにも勝手がわからず、つけていただく物もなく、唯そのまま少しづつかじってしまひました。ただ、おぞうにが内地のやうなのがいただきたいです。
 もうこれで大丈夫と思ってをりましたのに、現実はまったく異なり、再び前線同様の所に危険を犯して征かなければなりません。嫌になりました。けれど召されたこの身、勝ち抜く日まではいかに苦しかろうと、最前線の御苦労を思えば不足など申されません。大いに今の中に身体を鍛えておいて頑張って征きます。それにつけても、ニューブリデン島の人々を思ふ時、自分達がもったいなくて、たとえラバウルの土になりませうとも前線に帰りたい気が致します。

ミンダナオ島の戦い(ミンダナオとうのたたかい)
 太平洋戦争中の1945年3月10日から終戦までフィリピン諸島ミンダナオ島で行われた、日本軍とアメリカ軍及びフィリピン人ゲリラの間の戦いである。アメリカ軍側からみるとフィリピン解放作戦の一環として行われ、サンボアンガに上陸する「ヴィクター4号」と、残るダバオなどの制圧作戦である「ヴィクター5号」からなっていた。すでにレイテ島の戦いなどで消耗しきっていた日本軍は、苦戦を強いられることになった。この戦いの結果、南部フィリピンの主要部は連合軍によって確保された。

日本軍の一部が籠城したミンダナオ島のアポ山。フィリピンの最高峰である。

日本陸軍は、ミンダナオ島をレイテ島と並んで第35軍(司令官:鈴木宗作中将)の担当地区としており、レイテ島の第35軍司令部を脱出させてミンダナオ島に配置し、「永久抗戦」態勢を構築しようと考えていた。ミンダナオ島には第30師団(師団長:両角業作中将)と第100師団(師団長:原田次郎中将)、独立混成第54旅団(旅団長:北条藤吉少将)などが駐留していた。これは、ルソン島を除けば、フィリピンの残存日本軍の中で最大の兵力であった。もっとも、第30師団は、隷下3個歩兵連隊のうち2個をレイテ島へ増援として派遣してしまっており、戦力は半減していた。他の2部隊も治安維持任務の軽装備部隊で、もともと大きな戦力は有しなかった。サンボアンガに独混第54旅団、ダバオに第100師団が配置され、第30師団は北岸のカガヤンから中部一帯にかけて分散配置されていた。島内はゲリラの活動が非常に活発なこともあり、広大な地域に分散した日本軍の連絡は困難を極め、結果的に各個撃破されることとなった。
このほか、第32特別根拠地隊や陸軍第2飛行師団がいたが、艦艇や航空機はほとんど失われていた。第32特別根拠地隊は、隷下の第33警備隊にサンボアンガを守らせ、そのほか設営隊などを改編した陸戦隊4個大隊をダバオ付近に配置して地上戦に備えていた。
また、ミンダナオ島には日本人の民間人も多数が在住していた。その多くはダバオに住んでおり、ミンダナオ島の戦いの時点では少なくとも5000人であった。

連合軍機の空襲を受けるサンボアンガ港