マイナーアスペクトに分類されるクインタイルは72度。
これは360度を5で割った数に等しいのですが、私はこの角度にとても惹かれる部分があって。
単にQという記号が好きだとか、芸術性とか創造性って言われるとすごく良さそう!とかそんな程度の認識だったんですけど、先日の宮崎先生のマイナーアスペクトの講座を拝聴して、ぐだぐだ考えて、めちゃくちゃさらに好きになっちゃったんですよね。いろんな人のクインタイルみたい病にかかりました。
何から話そうかと思ったんですけど、私がお話を聞いて結構びっくりしたことが5という数字の解釈。
5っていう数は、占星術やタロットで小さい世界の中での「完成」を表すそうなんです。
私はタロットや占星術役な意味での数というものの理解が浅いので、当意即妙に「なるほどね!」とはならなず。
例えば「完成」であるならば聖書における「7」なんかを思い出してしまっていて。
西洋伝統の中でも数字の解釈って色々だし、そもそもキリスト・ユダヤ教的な価値観と占星術的価値観は軌を一にしないことも多いのは当然なんです。
まぁただ影響しあってるのでどっかでは重なるはずなんですよ。
だから逆に色々となんでかなー、こうかなあぁかなーと考えてみる中で「そっか!」と思ったことがあったんです。
そもそも神様、7日目は満足して休んでるんで、完成自体は6日目!
神の仕事を我々の仕事と同じように捉えていいのかは、それぞれの神学的な立場などあるのでアレですが、まぁここはごく身近な感じで考えってみた時に、多分6日目は微調整の日だったんじゃなかろうか。
なんでもそうですけど、何かを作るときに「完成したな!」と思ってから少し時間を置いて見直し、微調整することって大事だと思うのです。
だから神の創造も五日目には「小さな完成」を見たという考えると繋がってるのかなと妄想をたくましくいたしました。
6日目が見直しとか微調整ってのもなんとなく、乙女座サインとか6ハウスっぽさがある気がするというか。
健康とか、奉仕とか、ミスを見つけるとか、そういうことって結局ある程度の正解、正しいとされるもの、正常な状態、またそれを規定する器みたいなものを想定しないと何をしていいか何が有益かもわからないわけで。
つまりその前に調整すべき対象が成立してるからこその調整。
セクスタイルは60度で360÷6のアスペクトですけど、これがあまり目立たないのもそう考えるとすごくスッキリしました。
自分の前提から導き出し、それを運用するシステムとして必然的に働いているがゆえになかなか気づく必要のないもの、みたいな。
自分という個体を動かしていく上でセクスタイルは調整という妙技を発揮しているのかもしれない。
まぁこうなってくると獣と家畜と人間は微調整の結果(6日目に作られたことになってるので)^_^だということなんですけど、それもまたなんだか色々なものを鑑みるとめちゃくちゃ意味深だなって。
ちょっとわかりにくいかもですけど、与えられた環境の調整の結果の「正常性」の基準としての存在みたいなニュアンスになるというか。人間というものが人間というものを中心に考えた世界観の説明の一つが聖書でありユダヤ・キリスト教だと思うんですけど、その辺りの特権性とか正当性の権威づけとして綺麗に機能してる。
でそこからさらに考えて4というのは構造化だなって私は思うんですけど、例えば西洋は物質の構成要素を4元素として見る文化があったように、あくまでもそれは物質としての構成要素なんですよね。
物質というのは結合したり分離したりすることによって構造を作るわけですが、そこには常に衝撃があるわけです。
化学反応って、結合したり分離したりするときにエネルギーを発したり必要とするんですが、スクエアの衝撃ってこういうものから想像しやすい。
また聖書なんかで考えると4日目は太陽と月と星を作った日。
これは完全に環境というか、命が存在するための箱。(植物は3日目なんで、命っていうは少し正確さを欠く表現ですが)
太古から天空の運航と、環境を一変させる災害が結びつけられたように環境ってのは普段は穏やかでも時に牙を剥く。これは衝撃ですよね。
スクエアの意味っぽい!
例えばナイル川の氾濫が肥沃な農地を提供してくれたように、破壊の後に実りがあるというのもすごくスクエアっぽいのではなかろうか。
でもそこには人間的な「意志」ってないんですよね。ただの構造であり物質。その構造を動的に動かす動力が必要。
とかく伝統的な西洋文化圏では人間の理性とか意志とか、神様の似姿として現された人間の特権性の証拠を意識することがある種の特性なので、そういう意味でも「魂」(めちゃくちゃざっくり言ってますが)がすごく大事なんです。
それが4元素に加わる5番目の元素であり、5番目の元素を持つものは神様に似て作られたもの(これニュアンス的にキリスト教っぽいですけど、ギリシア文化圏にも当たるとおもう。この辺りの話はクソほど長くなるので省略するけれども・・・)であるという。
でもまぁ人間は神様に近づくことはできても永遠不滅ではないわけです。ただしかし、ある一定の期間は自律性を保つことができる。
これが小さな完成としての5なのかもしれない。
そしてクインタイルがある種のこだわりとして現れたりすることと個人的に面白い相似関係があるなって思ったことがありまして・・・
3角形、4角形、6角形って空間を隙間なく埋められるんですけど、5角形てどうしてもそれができないんですね。
つまり結晶って五角形はあり得ないんです。結びついて構造化できない。(正確には間違っていて、準結晶というものがありそれは五角形です。そこにもクインタイルと似たような性質があるしアモルファスではないあたりがすごく色々感じるんですけどこれまた長くなるので置いておいて!!)
つまりそれはある意味で個性だったり譲れないものとも言えるんじゃないかなーって。
隙間なく埋められるというのはある意味で融合だったり結合で一つのものとしても数えられる。
でも五角形はいつも完全にはくっつくことができないから、隙間がある。
人間そのものみたいですよね。一部しかくっつけない。
そしてそれって創造性とか、その人をその人たらしめるという意味で個性なんだなって。
頑固さが出る、というのもそれは納得というか、そこを明け渡してはおそらくいけない部分なのかもしれません。
状況に応じて譲ることがあっても、その結びつき自体を否定したり根本的に変えようとすれば「自己」の形が崩れてしまうようなポイントになりうるかもしれないななんて思ったり。自分の中の小さな神様、神様の部分、みたいな。
私はこう!をいつも突き通すことはなくても、持っているのは存外この不安定な世の中を渡っていくに心強いことだと思うのは、私が柔軟宮多めだからというのもあるでしょうが・・・。
天災をただ現象として観測するのではなく神様の意思と受け取って仕舞えば、大いなる者の意思の結果として唯々諾々と受け取ることしかできなくなるみたいに、そこにはある種の隷属性(価値観に固執してしまうという意味で)も見出せるのかもしれません。
シナストリーでこのクインタイルがあると周りの目を気にせず肌を触れ合わせるようなカップル、というようなある種の完結性があるそう。
それもきっと2人で五角形になった、つまり「2人以外の全てと隙間があるけど、我々の間だけにはない」というような感覚がどこか該当の天体また入室ハウスの分野においてあるのかもしれない・・・なんてグダグダと考えるといつの間にか朝が来るくらい楽しくて、いつのまにかクインタイル病を発症したのでした。
でもこう考えるとどんなアスペクトも興味深いんですけどね!!!そしてハーモニクスをきちんと教えてもらったらもっと色々妄想できそうだな!!!とワクワクしております。