問題を解決したい、自分が変わりたいという人は多い。
しかし、こういう口先だけでいうが、実際には頑なにに変化しないのだ。
どんなに偏った考えを持っていても、その考えに固執してしまうのだ。
変わること、変化は痛みを伴うし、俺たちは「知る痛み」に耐えることが難しい生き物だ。
変わることで誰かを切り捨てないといけない、誰かと険悪になる、何かを犠牲に、何かを捨てないといけないとなると、とたんに恐れて、変化することを拒んでしまう。
誰かに嫌われたくない、いい人でいたいという思いもある。
男性嫌悪や女性蔑視もそうだ。
男性全てが悪人、女性は全てクソなど、明らかに認知の偏りがある。
男にも女にもいい人がいれば、悪い人もいるのだ。
世の中は敵ばかり?
それは極端だ。
自分はダメ人間だから、ダメな人としか付き合えない?
そうとは限らないし、その考え方を変えなくてはいけない。
自分はダメ人間、何をやってもダメで生きている価値がないと言い張ったり、口では「そうですね」と同調しつつもまったく同意していなかったり、心を開いていなかったり、という調子なのだ。
自分が変わることで一体何を失うのか?
変わったらどうなるのか?
変わったら以前からの友人と縁を切らないといけないなど考えてしまうのか?
人から笑われるのが怖い?
変わることはダサい?
変わったら今まで付き合っていた人が離れていく?
変わったら、カッコ悪い?
今の方が楽だから?
プライドや見栄や虚栄心があるから?
だから、一生懸命努力している人や頑張っている人を笑って馬鹿にするんだよね。
嫌われるのが怖い?
しかし、嫌われたらその先どうなるのか?
その先を計算しているのか?
自分が変わった先の利害得失をちゃんとわかっていれば何も恐れることはない。
自分が持っている男性観や女性観、世間に対する見方、自己認識、親に対する気持ちに、こうした「執拗な変わらなさ/変えなさ」はあるだろうか?
何年も何年も、同じ世界観を持ち続けているとしたら、その視点は、偏りを持っている。
人の世界観は変化するものだ。
固定化した、変わらない自分などありえない。
世の中も社会も他人も自分も常に変化して、変わっていくものだ。
たとえば、学生の時と、社会人になってからでは、「世の中はこういうもの」という認識は大きく違う。
「昔は引っ込み思案でコミュ障で、女性と話せなかったけど、社会に出てから積極的になった」
「若いころはさんざん遊んだけれど、結婚してから落ち着いた」
などの行動の変化も、大小さまざまなきっかけによって随時起こるものであり、それが、人の認知の自然な変化だ。
つまり、変化しない、変わらないことは問題があることの証だ。
カウンセリングは変化を促す営みである。
その治療が難航するということは、変化したくないという、本人の執着がある。
なぜ変わりたくないのか?
なぜ変化したくないのか?
そこには「このままの私を受け入れてほしい」という欲望や、もしくは「どうしてみんなが変わってくれないのか」という不満がある。
しかし、一人のために世間や周囲が変わることはない。
その欲望が叶うべきものではないと気づいて、自分自身が変わることが不可欠なのだ。
親に関してもそうだ。
自分が「こうあってほしかった」「こうなってほしい」と思っていても、親とて他人であり、変えようと思って変わるものではなく、こちらの不満は募るばかりだ。
カウンセラーの仕事は、変わりたくない人の心に変化を促すとき、変化を邪魔する要素を探っていく。
トラウマがあって向き合いたくない人もいれば、親に対して憎しみの気持ちがあって、復讐心が芽生えて、親に対して復讐するのが目的で、自分を不幸にする気持ちがあるから変わりたくない人もいる、そして、本人に発達障害的なこだわりがあって、視点を柔軟に変えられないこともある。
それらのハードルを超えていくには、まずしっかりと精神科や心療内科の医師やカウンセラー、臨床心理士との間の信頼関係をしっかり築く必要がある。
ここでもう一つ助けとなるのが、自分自身の知識だ。
知識はやはり自分を助けてくれる。
親自身がどういう人であったか、に目を向けるとき、「親がこんな問題を抱えていたら、こういうことが起こりやすい」という知識が自分の中にあると、理解がいっそうスムーズになる。
やはり、知識、智慧を持っている人とそうでない人は雲泥の差がある。
そういう智慧を持っているだけで自分にとって役に立つし、有益である。