ご無沙汰しております。
前回までのblogで僕の『本当に言いたかったこと』は、宇野功芳さんに代表されるカラヤン批判派が本当はカラヤンの何処が悪くて批判している・或いはしたがっているのか? ということであった。
それを僕なりに彼らの絶賛するヴィルヘルム・フルトヴェングラーの
『音楽で哲学をしている。』
メッセージを梃子に、フリードリヒ・ニーチェの『永遠回帰・永劫回帰』とフルトヴェングラーの『音楽の1回性』をリンクさせて、解題していくものであった。
詳しい根拠〈理由付け〉は省くが、ヘルベルト・フォン・カラヤン支持者の多くがカラヤン肯定の根拠とする、
「録音の良さ・演奏の完璧さ」
こそが、カラヤン否定の根拠?となり僕が彼を解体〈脱=構築〉し、音楽評論家の
「ゴニョゴニョしたメッセージ」
をスッキリとさせることができるのではないか? と考えてみた。
企ては成功し、僕の目論見は順調に進んでいるかのように思えた。
しかし、それは僕の一方的な思い込みでこのblogのメイン・コメンテーターであるsakura-kasagaさんのコメントからは僕のblogで言いたかったことは殆ど通じていなかった〈ようである〉。
残念ながらやり直しである。その為、このblogの内容がさっぱり分からないひとには是非とも以下のリンクを読んでほしいと思う。
前にもクラシック音楽の取っ付きにくさについてのリンクを貼ったが、sakura-kasagaさんの無理解はニーチェやウィトゲンシュタインやドゥルーズが理解できることとは関係ない〈らしい〉。
来年で生誕100年・没後30年を迎えるジル・ドゥルーズについて語る方が僕には余程難しい、と思うが・・・。