どちらが相応しいのかについて、普段良い録音を聴きなさいと仰っている車田和寿さんは、
「どんなに良いスピーカーやヘッドフォンも、あるいはマイクも生の音を正確には拾えないのであるから、是非生演奏を聴きなさい。」
と語る。

僕は現在、スマホかテレビのスピーカーで音楽を聴いているから、生演奏には、例えアマチュア・オーケストラのそれであっても音質も迫力も息遣いも視覚的にも敵わない。

僕の実家にステレオ装置があった頃、当時のクラシック音楽の主役は間違いなくヘルベルト・フォン・カラヤン〈1908〜1989〉.であり、彼の指揮するレコードやCDはロック・バンド並の数億枚の売り上げを誇っていた。

その録音はアナログでありながらある意味〈完璧で〉、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー〈1886〜1954〉にとって
『一期一会であった〈音楽の〉演奏や録音。』
が、カラヤンに於いては、
「ベートーヴェンの不滅の9曲のような、プラトン的なイデアの体現が、演奏会や録音物・映像にそれぞれのレヴェルで実現されている。」
と考えられた。

車田和寿さんと並ぶクラシック音楽のYouTuberで指揮者の徳岡直樹さんも、
『フルトヴェングラーの録音は毎回、毎回違っている。』
と仰っているし、車田和寿さんもバイロイト音楽祭のフルトヴェングラーの第九を取り上げて、

『オーケストラの各楽器や合唱団が、凄まじいエネルギー?を発しながら、別々の方向へ向かっている』
ことを指摘している。

詳しくは車田和寿さんの↑↑↑のYouTubeをご覧頂くとして、これはプラトンのイデア論〈同一性と矛盾〉対ドゥルーズの『差異と反復』ではなかろうか?

現在、何故クラシック音楽ファンのあいだでかつての大指揮者の録音が持て囃される一方でこの極東の島国でも、さまざまなコンサートが毎日のように開かれるのか? このことの結論が出掛かってきた。

整形され人工物となった叶恭子・美香姉妹のバストのようなカラヤンのCDと、多少のミスさえ目を瞑ると美音が聴こえてくる例えば米国や東欧や日本のオケの生演奏では、後者が常に勝つということである。




クラシック音楽を聴くには、その作曲家や曲に関する僅かな知識さえあれば良いと思う。しかし、演奏家は別だ。曲の背景や細かな譜読み、更には指揮者や指導者からの指示も理解しなければならない、と思う。そのためには深い理解力、洞察力、たくましい想像力、更には膨大な記憶力が必要である。