池田清彦  著『平等バカ』を読了した。


『同一性 対 差異』のうち、平等は同一性論理の側、多様性は差異の側、性同一性障害やジェンダー・フリーといった「中途半端な差異」を開放する試みから、圧倒的な差異を開放する試みへ向かおうとする著者の筆致には僕もかなり共感するし、共感できる。


詳しい感想は後日にするが、ところで、かつて宇野邦一さんが、ドゥルーズ=ガタリの『n個の性』を「ニヒリズムとして否定する」吉本隆明や柄谷行人のことを、反=批判したが、この国の所謂「知識人」と呼ばれる人びとにも未だに「同一性論理」に依拠したり、差異は差異でも「〈大雑把な〉二分法」に依拠する者は多い。


僕は、ドゥルーズ=ガタリの著作等を読んで差異とは単なる二項対立ではない〈東西冷戦・南北問題・男女同権・・・〉ことを学んだが、この国では、浅田彰や柄谷行人が「ラカンを持ち上げ、レヴィ=ストロースをこき下ろしたこと」でそこの辺りが混乱して滅茶苦茶になった。それは、単〈ひとえ〉にデリダが批判したのは『一流のテキストのみである。』ことを根本的に理解しなかったことにも依る。一方で、柄谷行人のドゥルーズ批判は大方、的を射ない悪口である。


外堀を埋めるのはこれくらいにして、



生成変化・差異の開放といえばこの曲だろう。