「人間は皆、平等だ。」というのは最も酷い差別である。 | gd-fgのブログ
    どんな人間にも、食べ物と食べられない物の区別という思想がある。



    ⏫⏫この「人間動物という考え方はおかしい。」という論文の感想の背景には、如何にも「朝日のバカ新聞」らしい、「人間は皆、平等である。」というたとえそれが実現したとしても、人間以外の生命・非生命に対する夥しく著しい「差別的な思想」が含まれている。


    「◯◯は皆、平等である」

    とは、◯◯の集合とそれ以外をどうしたって「差別している考え方」なのである。拙blogにも何度か書いた『トロッコ問題』もそうだが、災害現場でも戦争でもその他の危機的な状況でも或いは野生動物の世界でも助ける〈助かる〉ことができる命と助からない命がある。もちろん、すべての生命ができる限り長命で健康で幸福な一生を過ごせるに越したことはない。しかし、すべての命が幸福な一生を過ごせるとは地球の容量を考えても不可能だ。



    「西洋がどのような道筋である特定の人々を「動物」とみなし人間性を剥奪(はくだつ)してきたかということが説明されている。そもそも動物という言葉は、人間に劣る存在の総称として対比的に用いられてきたのだという。そうした言葉やイメージを人間に使うことで、人間以下の扱いが様々な場所で行われてきた。植民地や入植先で行われた非人間的な扱いは、こうした考え方がもとになっていて、現在のパレスチナでも行われているという指摘には心が痛む。論文の冒頭で取り上げられた、イスラエルのガラント国防相が2023年10月9日に出した声明の「我々は人間動物と戦っているのだ」という一節は何度読んでも暗い気持ちになる。こうした言葉が、アラブ人やパレスチナ人に対して、繰り返し使われてきたという史実が胸に重たく響いた。

     私たちは無関係だろうか。論文のなかでは、難民の扱いにも焦点が当てられている。国家の外側に存在する人々に人間としての権利を与えず、主体や人間として認めないこと、これこそが最も苛烈(かれつ)な暴力だという文章を読んだ後に思い浮かべたのは、本邦における難民や在日外国人たちへの排他的な扱いだった。また、西洋の歴史上の人物の扮装をして、人間による類人猿への啓蒙(けいもう)や使役が無邪気に描かれたミュージックビデオについての騒動のことも考えた。こうした企画が通る社会の一員であることを真摯(しんし)に受け止めたい。

     


    ⏫⏫こうした−−もしもジル・ドゥルーズ流にいうならば−−「人間中心主義」の背景にはプラトンのイデア論があり、「真善美正」と「偽悪醜邪」の対立がある。僕が、拙blogのメイン・コメンテーターのsakura-kasagaさんとともに「同一性批判する」のは、単なる「人気取りのパフォーマンス」やある種の「言語ゲーム」で遊んでいる訳ではないのである。人間の欲望の赴くままに、それがたとえ人間をひとり残らず幸福にしたとしても、歴史を進めては必ず非道いしっぺ返しが来る。


    そういった問題が、「イデア論」や「弁証法」や「同一性〈のファシズム〉」や「ヒューマニズム」や「マルクス主義〈マルクシズム〉」か何かで片付くならば、もう誰も考える必要はない。必要なのは「決断」のみである。それこそ、「歴史の終わり?」。