レオノーレ序曲第3番は、以前ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮の交響曲全集〈サイクル〉、ベルリン・フィルハーモニー〈1970年代盤〉で持っていたと思うが、暫く聴いていないうちに忘れてしまった。カラヤンといえば、

「レガート、レガート!!」

であるが、声楽家の車田和寿さんが、

『レガート=分厚いサウンドではない。』

と仰るように、音と音の切れ目を繫ぐ〈或いは分からなくする〉ために大編成のオーケストラで〈レガートに見せ掛ける〉「〈〉内、傍点」のは音像もぼやけるし、本末転倒である、と。


僕は彼の指揮によるムスティラフ・ロストロポーヴィチ独奏のドヴォルザーク『チェロ協奏曲』とスヴャトスラフ・リヒテル独奏のチャイコフスキー『ピアノ協奏曲第1番』を愛聴しているが、それらはソリストの力量が際立っているから良いのであり、いつの間にかカラヤン指揮の管弦楽曲・交響曲は殆ど聴けなくなってしまった。


「レガート=分厚いサウンド」

として演奏を胡麻化したカラヤンのクラシック音楽に対する罪は大きい。実際に観点を変えて室内楽を聴くと、楽器の鮮やかで武骨とも言える生音と演奏者の息遣いも聴こえてくるようで生々しい。不自然で人工的なカラヤン指揮の管弦楽とは対照的である。付け加えると、汎ゆる存在を機械と捉える僕は、

「指揮者や演奏者の精神性や内面」

といった概念を軽視しているが、少なくともヘルベルト・フォン・カラヤン・サウンドの本質は、

「忌み嫌われるほど外面的・表層的」

なものである。


さて、本題のモーツァルト交響曲第39番変ホ長調であるが、フランス🇫🇷革命最中〈さなか〉の1791年に35歳で亡くなった彼の1788年〈32歳〉の作品で、40番ト短調・41番ハ長調『ジュピター』と共に名高い交響曲である。



ナチスに拠るユダヤ人迫害〈後に大量虐殺〉のためにウィーンからニューヨークに逃れて指揮を続けたブルーノ・ワルター〈1876〜1962〉はその晩年にコロンビア交響楽団とかなりの数のステレオ録音を残したが、それは今となっては〈人類の〉貴重な遺産〈レガシー〉になっている。


⏫⏫⏫⏫⏫は、そのワルターが得意としたモーツァルトである。ト短調の交響曲が2曲あるだけであとは全て長調〈とされる番号付き〉の交響曲を書いたモーツァルト。残念ながら37番は序曲のみで確かヨーゼフ・ハイドンの作品らしいが、39番は41番と共に古典派の総決算と言っても良い壮大なスケールの交響曲である。僕は昔、ジョージ・セル指揮・クリーブランド管弦楽団演奏のLPレコードを持って他の奏者の演奏を殆ど聴かずに悦に入っていたが、そろそろ〈モーツァルトの〉交響曲も比較したりしても良い時期ではないか?


実際のコンサートの音は明るく、何時も不安定な金管・木管楽器もこの日は安定していた。オーボエの編成がないこの交響曲の中でクラリネットが一度だけ音を大きく外した〈ように聴こえた〉だけである。大人になった〈by  檀ふみさん・N響アワー〉モーツァルトには次第に翳りも出て来るが、稲城フィルハーモニーの演奏には陰がなく、僕はメイン・プログラムのブラ4で思いっ切り落とすのではないかと思い怖くなった。


ここで前半のプログラムが終わり、15分間の休憩となった。彼女と僕はアンケート用紙に必要事項や感想等を書き込み、彼女は先ほどルパで購入したお~いお茶で喉を潤した。場内アナウンスでは、撮影・録音・携帯電話の通話・それに飲食を禁止していたが、熱中症予防のために水分補給は認めて欲しい。


〈長くなったので、この項・続く〉




ブルーノ・ワルター

ジョージ・セル

ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト