僕は、尾高忠明さんの指揮は一度しか鑑賞していないし、札幌交響楽団の演奏は聴いたことがない。しかし、この批評家の3類型である『マーク・シュマーク・スマート』の話は参考になるしためにもなる。

以下、アマゾン・カスタマーレビューの巨人たるニゴチュウさんの批評を掲載したい。





「まぎれもなく、この曲は名曲で、この演奏は名演だ。
2014年11月27日に日本でレビュー済み


2014年、札幌コンサートホールKitaraでライヴ録音された、尾高忠明(1947-)指揮札幌交響楽団によるシベリウス(Jean Sibelius 1865-1957)シリーズの第2弾。このたびは、交響曲第2番ニ長調 op.43 と 組曲「恋人」op.14 が収録された。
 
『いきなり、本盤と直接関係のないことを少し書く。最近、このシベリウスの交響曲第2番を「駄曲」と言う人がいる。それも、国内のそれなりの批評家が、そのような言及をすることがある。このこと自体が日本の批評の水準を物語っているように思う。
 
最近、知人から、以下の様な話を聞いた。どのような趣味の世界でも、フアンを3つの層に分類することができる。第1の層は「マーク」と呼ばれる。いわゆる初心者で、「面白そう」という感覚で接している人々。第2の層は「シュマーク」と呼ばれる。分かった気でいて口うるさいが、根本で理解の足りない層。第3の層は「スマート」と呼ばれる。趣味世界をよく理解し、プロモーター的な視点で楽しみ、評価する。
 
本来、プロの批評家は「スマート」であるべきだが、私見では、国内の批評家の多くが「シュマーク」的な言動に終始する傾向が強い。彼らはプロモーターとしての役割を果たさず、ネガティヴな情報を発信する。例えば「こんな駄曲を聴いているうちはまだまだだ」「こんな演奏で喜んでいるのはダメだ」「大家と言われているが、録音は駄演ばかりだ」などなど。。。実際、このようなうがった意見が大書されるのは、どのような分野においても、歪を助長する効果しかないように思うのだけれど。
 
要するに、私が言いたいのは、シベリウスの交響曲第2番を「駄曲だ」なんて言う人がいたとしても、そのような声に惑わされることなく、この素晴らしい曲に接してほしい、ということ。なぜなら、私はこの曲で、何度も感動を覚えた経験があるから。そして、この尾高と札幌交響楽団による純朴で心洗われるような表現は、そんな私に、改めて感動を喚起してくれた、素晴らしい名演だと思う、ということ。
 
冒頭からじっくりしたテンポで、内声部に配意した滋味豊かなサウンドで、適度な柔らかさを保ちながら、中庸のバランスを崩さない進展。劇的な演出を避け、自然で自発性のある感情の高まりと沈静を、綿密に描いている。第2楽章の咆哮も、適度なセーヴがあり、積極的に語りかえるわけではないが、近づくものを拒むことも決してない。木管にそっと添えられる透明な情感が無類に美しい。第3楽章から第4楽章にかけては、豊饒なホルンの響きが見事だし、フィナーレにむけて、ゆったりと情感を高めていく様は、心地よい高級感に満ち、聴き手に幸福感をもたらす。このように満ち足りた気持ちになるのは、まぎれもなくこの曲が名曲で、この演奏が名演だからだ。
 
弦楽合奏とティンパニ、トライアングルという編成で演奏される組曲「恋人」も内省的といって良い表現で、音楽も外向的なものではないのだけれど、深く染み入る様な表現で、聴いているうちに、深いところにたどり着く様な神秘性を感じさせてくれる演奏だ。
 
あらためて、これらの音楽の素晴らしさを味わわせてくれた録音だ。』
 
 
7人のお客様がこれが役に立ったと考えています。」

如何でしたでしょうか?

世の中、貶したりディスったりマウントを取ったりすることで〈自らを相対的優位に立たせようとする〉ひとは多いと思われるし、実際にもたくさんいる。柄谷行人氏の名言『売る・教える立場〈に立つこと〉』ではないが、へりくだったり一歩引くことで見えて来ることもこの世の中には多いのではないか?

その意味でも、日本の〈見識あるとされる〉音楽批評家達の中に、
「貶すことで飯を喰っている。」
ひとが少なからずいることは、残念な指摘である。そして、このことを書かれた当のニゴチュウさんが滅多なことで他人の作品を貶めたりはもちろん〈批判〉すらしないのには僕は幾度も感心させられた。

「マーク・シュマーク・スマート」とは、元々プロレスリングの批評の言葉らしい。批評や批判の言葉の中には当然〈ネガティブな概念も含まれる〉が、その用語法と目的はできる限りポジティブなものであって欲しいと思うのは僕だけではあるまい。