『識別はできなくても理解はできるという領域を認めることにより、われわれはある種の超越性を容認している』
2016年2月27日に日本でレビュー済み
 2004年の本。著者は当時は千葉大学教授の哲学者である。
 曰く・・・
 私がA君と対話する。A君は実は私よりも3時間未来にいるのだが、彼の声や映像が私に伝わるには(逆の場合も)3時間かかるとする。すると会話は普通に成立する。しかし、彼の「今」と私の「今」は違う。言語ゲームという客観的なものをあらかじめ前提しなければ、すべての人は私的言語を話していて、しかも結果的になぜかうまく一致している、と考えることができる。時間も同じで、客観的な今なんかいらない。私は「私の今」しか知らない。客観的な今によって機構全体が連動する必要なんかない。「私の今」で十分であり、それを客観的な今とみなせばいいし、そうするしかない。
 「私」と「今」とは同じものの別の名前なのではないか。そもそもはじめから存在する「ある名付け得ぬもの」に、あとから他のものとの対比が持ち込まれて、「私」とか「今」とかいろいろな名付けがされていく。他人との対比が持ち込まれれば「私」であり、過去や未来との対比が持ち込まれれば「今」となる。身体との対比なら「心」だし、外界となら「内界」、死となら「生」、非現実となら「現実」、決定論となら「自由意志」ということになる。対比が持ち込まれた後では、あたかも対比が成り立つための共通項がもともとあったかのような錯覚が生まれる。他人と私の対比からはそれらに共通の「人間」というものが存在するかのように考えられるし、今と過去・未来の共通項から「時間」が存在するかのように考えられる。でも、人間たちの中に「私」はいないし、時間の中に「今」はない。むしろ、「私」の中に人間たち、「今」の中に時間がある。
 時間的位置を持たないはずの「開闢」は、それ以上遡行不可能な単なる奇跡にすぎないのに、そこで開闢したものが「存在する」といえる基準は、対比が持ち込まれて共通項が設定された後で、その共通項の中で決まる。開闢それ自体が、その内部で生じた存在と持続の基準に取り込まれる。そのことによって、われわれの現実が誕生する。現実は作り物だが、それこそがわれわれの唯一の現実である。
 われわれは、違いを識別できる、違いを理解できる、違いの理解さえできない、の3つを区別している。識別はできなくても理解はできるという領域を認めることにより、われわれはある種の超越性を容認している。
 「創世記」のような神の世界創造の場面の描写において、ナレーターは誰なのか。
 概念や理性の真理は神の知性に依存するが神の意志は必要としない。神の知性の中にあるあらゆる可能世界と同じように存在するから、現実に創造される必要はない。正二十面体が可能であると証明されるなら、正二十面体はそれだけで存在する。個体や事実の審理は、現実世界で生じるということが含まれているので、神の知性のみならず神の意志もはたらく必要がある。つまり、神によって現実に創造されなければならない。
 他の時点にいる者にとってはその時点が「今」であるとしても、端的な現実世界、端的な今、端的な私はただひとつここにしかない。この言い方がすべての「現実世界」、すべての「今」、すべての「私」にあてはまってしまうとすれば、その責任は言語にある。そこには決定的断絶があり、それこそが神の知性と神の意志との断絶であり、存在論的差異とよばれる断絶である。言語の本質的な機能は、この断絶を否定することにあるのかもしれない。様相、時制、人称といった諸装置はそのことによって生まれたのではないか。
 私が存在すると感じることは客観的時間の中で持続的に存在することだと感じることである。あらゆる時間的位置づけは知覚の中に何かが持続的に存在することを前提とする。それらとの関係において変化や運動が知覚されるから。私の外部に物が存在していることが時間的位置づけのための条件であり、私が時間の中に存在しているという意識は外界の物の存在と必然的に結びついている。言いかえれば、私自身の現実的存在の意識はそのまま直接的に私の外部にある物の現実的存在の意識なのである(カント)。私の心が作り出し、私の心の中にある外界の中に、その私自身がおり、外界の中にいる私がその外界を作り出し、私の中にその外界自体がある。
 心の中の諸表象が因果性等により関係づけられれば、そのことによって心の外に外界が成立する。そのように関係づけられて外界を成立させたとき、それは知覚や記憶等の客観的判断とされ、そうでないときには主観的経験とされる。
 身体に切れ目(物理的個別性)があるのと同じように、夜をへだてた記憶は弱く性格も日ごとに変化するのなら、「日」は「身体」にあたるものとなり、「今日」が「今」に身体性を与えることになる。
 神が現実に存在するということは、この現実世界に神が存在するということであり、すると、神が存在しない可能世界もあるということになる。神は存在しないことも可能(なのだがたまたま現に存在している)ということになる。こうした諸可能世界そのものが神の知性の内部にのみあるのではないか。現実世界は諸可能世界のうちの一つの世界にすぎない。一方で、それらの諸可能世界は現実世界の内部で構想されているにすぎない。ゆえに、われわれはその現実世界の存在を証明することはできない。
 みたいな話。