定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして実際にそうであった、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体側の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。〜〈中略〉〜


重要なことは「あれは酸っばい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。


狐の中に「甘いものを食べない生き方こそがよい生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、孤ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。」


という文です。「自己を正当化するための転倒した価値意識」これがルサンチマンなんだと。


そう言われて、世の中を見渡すと、多くの人(弱者や左翼学者、左翼政党)の主張や行動がそういうルサンチマンで出来ているような気がします。


〈この項目・続く〉

 

昨日の話はここまでであった。その後、僕は永井均先生の『道徳は復讐である』を読み始め〈てしまっ〉たので、この続きはもう少し待って欲しい。



リヒャルト・シュトラウス:交響詩「ツァラトゥストラはこう語った」