「僕が、ご教示を受けた永井均さんは繰り返し、

「哲学には、本音と建前がある。」

と仰っている。〈『これがニーチェだ』『倫理とは何か?』参照〉





本音とは平たく言えば、全ての存在〈生命・非生命〉はそれぞれバラバラであり、それらは決して平等ではない、というもの。永井均さんの言葉ではないが、

『◯◯◯◯・・・・・。ゴルフってとっても不公平だ。だからこそ人生を象徴している。』

という戸張捷さんの言葉が代表的だ。同じクラブの本数〈14本〉、同じホール数〈18ホール〉、で回りながら無風の絶好のコンディションで回るひともいれば、風雨に耐えながら回るひともいる。ゴルフ⛳は同じ条件を設定しながらこんなにも不公平なのかと、まるで人生そのものではないかと。


僕は圧倒的に⬆⬆⬆こちら派なので、

「すべてのユダヤ人は生まれながら平等である。」

とか、〈これは宗教の信仰、詰まり「神との契約」なのでまだ許せる。〉

「すべての人類〈もしくは存在〉は生まれながら平等である。」

とか、〈これは、理念としては立派でも現実には不可能であり、よく言えば「理想論」、悪く言えば「お花畑」だ。〉建前としての哲学は、

「アキレスと亀のパラドックス」

のように実現不可能である。


例えば、生まれてから5歳未満で亡くなり、学校にも選挙にも行けないで一生を終える子ども〈ひと〉と100歳以上の長寿を全うし、苦しいこともあったにせよ子どものうちに死ぬとか、戦死するとかはなく一生を終えるひととの『差異』をどのように埋めるのか? もちろん、この場合この世の死後に永遠の生命が与えられる、という回答は明らかな〈ウソ〉なので却下する。


また、ある魚や鳥や爬虫類や両生類の卵のうち、卵からかえらず亡くなる存在とおとなになり繁殖することもできる存在との差異をどのように埋めるのか? ただし、例えば魚🐟の卵がすべて成魚になれたら、それは生態系の破壊に繋がる。


人間も、すべての卵子が子どもになったら地球🌏が持たない。


それでも、「〈人間だけではなく〉すべての存在は平等です。」と主張するひとがいるのは、押しなべて、

「生存権の保障」

が目的であると思われる。「ひと」と言ったのは、他の生物種でそのようなことを言った存在を僕は知らないからである。


僕の敬愛するドゥルーズ=ガタリは、汎ゆる生命と非生命を差別しない替わりに、

「汎ゆる存在は平等である。」

とは、死んでも言わなかった。もちろん、人間だけが平等である、とも言わなかった。


僕も、汎ゆる存在が幸せになれたら良いと思うが、現実にはそうは行かない。例えば、僕の楽しみでもある

「競走馬のレース」

即ち、『競馬』はその生殺与奪の多くを人間が握っている。後世に残す血と残さない血を人間が決めている。


しかし、それらが「神の意志」に背くからと言って、競走馬〈という芸術品〉の繁殖を止めたら折角育ったサラブレッドが死滅する。そして、その生殺与奪を僕の力で変えることはできない。


別の視点からみたい。「心の風景」さんの仰る「どの国も平等です。」という視点、例えば連合国〈国際連合〉の投票がインドや中国といった大国も、或いは島嶼からなる小国、アンドラやモナコやリヒテンシュタインといった小国も〈同じ1票〉というのは、僕も良い制度であると思う。第二次世界大戦前の「全会一致に拠る議決」からの過渡期にある〈と思われる〉「拒否権」がなくなるに越したことはないが。しかし、〈同じ1票〉というのはほんとうに〈同じ1票〉なのか? 十数億人の1票と数万人の1票が同じとはどうみてもおかしいではないか?


或いは、人口凡そ100万人に議員1人選ばれる選挙制度があったとしよう。それらは同じ条件のようにみえるが、投票率90%と投票率50%の選挙区の差異、どの政党の何という候補が立候補しているか、それらの候補は新人か現〈前〉職か元職か、彼等は何歳と何歳・・・で◯性の候補なのか、期日前投票に何%の有権者が投票したか、投票期間の天候はどうであったか、等々一致しない〈不公平な〉条件を探せばいくらでも出てくる。


だから、その選挙は無効なのか? 前言を翻すようだが、僕は基本的に

『選挙制度は建前で良い。』

と思う。何故ならば、人びとのランダムな行動を把握するのには限界があるし、圧倒的多数〈もしくは全会一致〉で選ばれる候補は、こう言って良ければ

「独裁者に過ぎない」

からである。


「どの国も平等です。」

とか、

「ひとは皆平等です。」

と主張するひとがそこまで考えているのかと訊かれたら、答えに詰まるか、平然と矛盾したことをいうだろう。


僕は、汎ゆる存在はバラバラの運命を持ちそれらには不平等もあるが、それぞれの生を精一杯生きればそれで良いと思う。もちろん、不当な?権力に拠る格差や生存権の

侵害は是正されるべきであるが、完全に平らになったらそれはそれで権力の不当な行使である。」


これらの「平等を中心とした考え方」は、明らかに「差異を対立や否定の概念」として捉えている。このようなことをいう僕でさえ、「飢餓や虐殺のない世界」を考えるが、それでも見せかけの平等ほど「悪い世界」はない。


続きは他の方のblogで。