いきなり、1988年から現在に至るまで読んでいるテクスト『アンチ・オイディプス』の話をするのも「心の風景・さん」には失礼なので、僕が書いたものを載せたい。

以下、拙文が読んで頂けたら幸いである。



『僕は、

「すべて人間は生まれながら平等である。」

という「主張〈=信仰〉」が最も嫌いである。人間が〈は、ではない。〉平等というのは、他の生物〈生命〉は押しなべて人間の下僕〈しもべ〉ということである。おかしいではないか? 誰がそのようなことを決めたのであるか?


もしも、人間が平等であるならば、他の生命も平等でなければおかしいではないか?しかも、生命は何か栄養かエネルギーを補給しなければ生きては行かれない。人間が生きるということは何か〈誰か〉を頂くということである。詰まり、人間と他の生命のあいだには階層〈階級〉が存在して、他の生命の生殺与奪は人間が握っているということである。にも拘らず人間〈だけ〉は平等であるとはおかしいではないか?


僕はここで、進化論や遺伝子や宇宙の始まりについて知らなかった古代人を責めるつもりはない。そうではなくて、

『現代社会に於いて、人間〈だけ〉は生まれながら平等である。』

という主張が如何に間違えているかを主張したいのである。



ルートヴィヒ・J・J・ウィトゲンシュタイン〈1889〜1951〉
フリードリヒ・ニーチェ〈1844〜1900〉』

以下、宇野邦一さんの『混成系』からの一部引用である。

『この本〈アンチ・オイディプス〉に「泥のようなニヒリズム」や、ぬえ〈鵺〉のような国家=社会としての「天皇制」を読んでしまうとき、人はつまり、「オイディプス」の構図から、「差異」を解放しようとするこの本の試みを、逆に「無差異」への歩みにおいて読んでいるのだ。』
だから、「ドゥルーズはフロイトを理解していない。」という柄谷行人はD=G から「ぬえのような天皇制」を読まざるを得ない字の読めない輩であり、実はフロイト
のこともD=Gのようには理解できない。

『『アンチ・オイディプス』が終始説得的に書かれているかどうかは別として、この差異の解放の思想には、ファシズム、スターリン主義を通過し、それらを五月事件の坩堝でさらに試みなくてはならなかった思想の大きな試練がこめられていたのだ。それは、戦後日本の思想が通過してきた様々な試練が、例えば吉本〈隆明〉氏の方法と意識に圧縮されてきたのとかわらないのだ。』〜中略〜

『ドゥルーズとガタリの本が、速さの讃歌だって? 何という早とちりだろう。『千の高原〈プラトー〉』は、確かに速度の哲学だといってよい。けれども速度は、速くそして遅いことだ。速度は分割できない。それ自体すでに微分であり、関係であり、つねに連続的に変化するしかないから。』
〜中略〜
『一般に強度は、強いこと、弱いことの両方を含んでいる。』

一般に速度とは速いことそして遅いことの両方を含んでいて、強度とは強いことと弱いことの両方を含んでいる。そこには区別はなく、優劣もない。

実体は主体である、と主張したG.W.F.ヘーゲルがなんとバカにみえることやら。


ジル・ドゥルーズ〈1925〜1995〉