以下、blogからの引用です。


『ここで改めて強調しておきたいのは…、何れにせよ…、我々は「コミュニケーション(対話)」を通じなければ物事を知り得ないということであり、これは所謂、五感(視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚)も同等のように考えます。…そういう意味での、(以前から述べていた)「”存在”と”存在論”とは別モノである…」や「理屈(存在論)では”存在”に辿り着けない…」でもあったのです。

 もう一つ強調しておきたいのは、主にヨーロッパ(西洋形而上学・西洋哲学)的文脈では、一般的な物事(ヒト・モノ…等)は「(=イコール)存在」と考えられ、極めて物質的、即物的に扱われる傾向にあります。しかし、この「インタラクティブ・モナドロジー」「コール・アンド・レスポンス」的概念では、その「物事(存在)」とは「認識像」でしかありません。言い方を変えれば、我々が知り得る「存在」とは、基本的に「”存在”の一面(コミュニケーション的認識像)」でしかないと考えるのです。近代的には…、その都度「理屈(論理)・言い訳・意味付け」的な言い掛かり(?)を「大義名分」として、「物事(ヒト・モノ…等)・存在」を支配しようとしてきたのです…。』


今迄、何を書かれていても理解出来なかった『インタラクティブ・モナドロジー』の入り口が見えて来ました。


例えば、AさんのマイナンバーカードとBさんのマイナンバーカードがあるとして、其処に書かれていること、映っている証明写真を我々は、

「コミニュケーション」

と呼んできた訳で、それに対してもう少し深いレベルのコミニュケーションは、例えば3D画像+5.1チャンネルのやり取りである、という訳です。


かつて1980年代、ロッキンオンで岩谷宏氏は、

『コミニュケーションとはお互いの辞書の完全な刷り合わせである。』

とフリードリヒ・ニーチェを援用しつつ語っていました。

「我々のコミニュケーションはあまりにも不完全である。」

とも。


絵画に於いて、セザンヌからピカソへ行く道は、視点を複数にして複雑にする道ですが、絵画が「2次元の表象(代理)芸術」に過ぎないと思えば、キュビズムは必然的です。


音楽🎵に於いて、ユニゾンからコーラス(ポリフォニー)へ至る道は私見では、

『モノローグからダイアローグ(以上)』

へと登る道です。


人間の作る音楽は19世紀から20世紀に掛けて、既に「ポリフォニー」となり、3Bを始めとする様々な天才達が唯の自己満足ではない複雑な道を歩み始めていました。


書き散らかしていますが、この項も続く予定です。



フリードリヒ・ニーチェ〈1844〜1900〉
ジル・ドゥルーズ〈1925〜1995〉