僕の家には、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮で確かベルリン・フィルハーモニーのシェヘラザードのレコードがあったが、1970年代当時は今のように様々な音楽ソフトや配信があった時代ではなく、前にも書いたが基本的には、

「カラヤンか、カール・ベームか?」

の時代であった。それでも自宅には、

1.ブルーノ・ワルターのブラ1

2.フルトヴェングラーのベト7

3.ジョージ・セルのベト3『英雄』やモーツァルト39番・40番

等の交響曲等のカラヤンとベーム以外のレコードや、父の趣味のワーグナーの『指輪』やリヒャルト・シュトラウスの交響詩等の表題音楽のレコードがあった。


僕はそれらを聴いたり聴かなかったりであったが、こんにちのように「二項対立」の世界が終わり、価値観が多様化した所謂「大きな物語の終焉」した複雑な世の中でない時代は、スポーツも芸術文化もそれなりの単純さを持って存在した。だから、僕がいくらクラスメイトに、

『フルトヴェングラーは、◯◯』

『ワルターは、◯◯』

と話しても、こんな片田舎の函館市では受け入れて貰えなかったのも当然である。時代の流れは、

「巨人・大鵬・卵焼き」

から

「江川・ピーマン・北の湖」

に変わったが、大きな物語・即ちイデオロギーは依然として健在であった。


僕の父はもうひとつ、アルトゥール・ルービンシュタインのピアノ🎹が好きで、フレデリック・ショパンを始め、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー、セルゲイ・ラフマニノフ、それにルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンの協奏曲やソナタ、ショパンについては更にいくつかのカテゴリーのレコードもあった。ということで、ここではリムスキー・コルサコフよりも寧ろフレデリック・ショパンの細〈ささ〉やかな話。


21世紀の現在、フットボール〈サッカー〉も、ラグビーももちろんベースボール〈野球〉も様々な地域の様々なチームや選手に関心が集まり、その最大のヒーローはアナハイムじゃなかったロスアンゼルス・エンゼルスの大谷翔平という訳である。それでも彼はあくまでも、『大きな物語無きあとのヒーロー』である。


かつて昭和30年代∧1950年代、評論家の大宅壮一氏は、テレビ📺の普及を

「一億総白痴化〈の始まり〉」

と評した。本や新聞といった活字メディアから、テレヴィジョンという視聴するメディアへの主流メディアの移行は、

「日本国民をすべて馬鹿にする。」

という訳である。


しかし、考えてもみよう。本・新聞・ラジオ・テレビというメディアは、〈原則として〉発信者と受信者のはっきり別れるメディアである。それは、学校の「授業や講義」、病院の「診察・検査」等も基本的には変わらない。つまり、双方向ではない単方向のメディアである。もちろん、メディアの発信者に意見や異議申し立てすることは可能であるが、そもそも、

「単方向のメディアでは〈大宅壮一氏の言う一億〉総白痴化」

は避けられなかったのではあるまいか?それは、つまるところ、

「中央銀行や市中銀行等を始めとする金融機関に通貨発行権を委ねている〈貨幣・通貨〉の構造」

と変わらないのではあるまいか?


われわれは前に進むことを欲する。ざらざらした大地に戻れ。


〈この項・続く〉



ニコライ・リムスキー・コルサコフ〈1844〜1908〉
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン〈1770〜1827〉

フレデリック・ショパン〈1810〜1849〉