僕は「共産主義と社会主義」や「弁証法哲学に於いて何故、上位の段階へとステップアップできるのか?」さえ分からず、高校時代にT教諭が黒板に毎度毎度、


「ヘーゲルの観念論


フォイエルバッハの唯物論


マルクス 唯物史観 史的弁証法」


と書く意味すら知らなかった。要は、プラトンの同一性概念〈イデア論〉を発展させたものだ。


そして、この地点からナチスドイツもファシスト党も、或いはソビエト共産党も後の中国共産党も〈現実の政党〉として生まれて来たのである。


英国の哲学者カール・ポパー〈1902〜1994〉は、その著書『開かれた社会とその敵』の中で、

「全体主義と社会主義の批判をしている。」

らしい。らしい、とは哲学者の飯田隆先生に聞きながら自分では確かめなかったからである。でも、プラトン哲学が即ちイデア論が、ヒトラー、スターリン、毛沢東らを生み出した、と主張していたことは間違いない。彼らにとっての政治的理想が「地獄絵図」を生み出したのである。


一方で僕は人間同士の

「経済的・健康的・政治的・社会的・金銭的」

等々の平等は決して求めない。もしかするとそれは、全ての人間を同じ考え、同じ労働、同じ健康状態に導くものかも知れず、前にも何処かで書いた

「金太郎飴のような世界観」

を実現するものかも知れない。


僕は、もしもかなり強引な権力闘争をして汎ゆる人間の平等が実現したとしても、その他の動植物、特に脊椎動物が不当に差別されているならば、寧ろ人間の平等が/は実現しない方が良い社会と確信している。


貧富の差、食事の差、社会的地位の差、寿命の差があることが/はそんなにいけないことなのだろうか? そのようなことをしても、我々と大谷翔平君との差異はどうにも埋められないのだから、抗っても仕方あるまい。