結論から言って、

「◯◯は間違えている。だから、私は正しい。」

という論理は、フリードリヒ・ニーチェに言わせると、

「奴隷の論理」

即ち

「ルサンチマン」

であるそうだ。


昨日、衆議院予算委員会で日本共産党の笠井亮は、

「原子力発電は間違えている。だから、私は正しい。」

という論理を展開していたが、

「原子力発電は間違えている。だけど、私も間違えている。」

とは思わなかったのか?


もちろん、福島第一原子力発電所の事故は東京電力の大エラーである。しかし、そもそも福島第一原子力発電所の事故と自分が正しいかどうかは〈無関係〉ではないのか? 発電所の事故の後で、〈事後的に正しさを主張したところで〉、その人は正しいと言えるようになるのであろうか?


僕は、ヘーゲルインチキ弁証法哲学については門外漢なので結論は言えないが、もしも僕の推論が正しいならば、ここにも弁証法哲学の弊害が出ているかと思う。


僕がジル・ドゥルーズやミシェル・フーコーを引くまでもなく、ヘーゲル、マルクス、ルカーチ、サルトルの弁証法哲学の系譜を一切認めないのも、そもそもはニーチェの奴隷の論理批判に拠る。


このことはもちろん、原子力発電が正しいかどうかには無関係である。このblogのコメンテーターのsakura-kasagaさんに余計な心配をお掛けしたようなので、ここに僕の考えを掲載した。