僕は、マルクス主義も嫌いであるが、それに輪をかけてヘーゲル弁証法哲学が大嫌いである。
どれくらい嫌いであるかは、口ではなかなか言えないが、グスタフ・マーラーの音楽と同じくらい嫌いである、と言えばお分かり頂けるであろうか?
兎に角、ヘーゲルの用いる概念は空虚で内容が伴わないと僕は思う。そこに実質を与え〈ようとす〉るのだから、中身が伴わない。そのため、批判する概念もまた「トートロジー」になり易い。
こういう全体主義の源になるような阿呆な哲学の研究は、批判するためのみに使い肯定形で使うことがあってはならない、と僕は思う。プラトン哲学にはまだ「転倒する価値」があるが、ヘーゲル=インチキ弁証法哲学には「抹殺されるしか役目」はない。
僕は、汎〈あら〉ゆる存在には差異とあり、それらは上下の差異ではないものの、決して均衡せず平等でもないと思う。ドゥルーズやデリダ達以降の哲学では頻〈しき〉りに、
「ダイバーシティ〈多様性〉」
の概念が声高に叫ばれるが、僕は、
「男女・人種・民族間の平等を目指すダイバーシティ〈多様性〉」
は、競争原理のみに基づく偽物のダイバーシティ〈多様性〉であると思う。
今は亡きフェリックス・ガタリが、
「現代社会は〈競争〉のみが価値のあることになってしまった。」
と生前嘆いていたが、僕も同感である。
本来、今回の記事は
『僕は改憲派である。』
という内容になるはずであったが、異なる内容になってしまった。そのことについてはまた別の機会に書きたい。