7月4日に書いたblogのリブログです。

カール・マルクスの天才の生み出した資本論も現実の政治体制では、「赤き血の粛清体制」を生み出すのみでいい加減な資本主義経済の方が幾分マシな体制となったのは歴史の皮肉であるが、それは
「マルクス主義もまたピタゴラス=プラトン=キリスト教体制の延長」
であり、詰まるところ
「オイディプスと同一性の産物」
であったからではあるまいか?
 
いい加減なことを書くと怒られそうであるが、僕が直接教示を受けた飯田隆先生は、
「一流の哲学者になろうとしたって、よほどの天才でもなければ、何にもならない。そんなこと考えるより、真面目な二流の哲学者になりなさい。真面目な研究は後世に何がしかの成果を残せるものだ。」
ということばを残したそうだ。
 
僕が、
『哲学は結論の出ない学問であると思いますが、そんな哲学が止められません。』
というと、飯田隆先生は、
『哲学には分かる問題と分からない問題とがある。
〈分からない問題をやっても仕方ないから、〉分かる問題だけやれば良いのだよ。』
と丁寧に説明して下さった。だから、
『真面目な二流の哲学者になりなさい。』
とは、つまりそういうことなのだ。
 
分析哲学が主流になるに連れ、哲学がスケールダウンしたと思っている人は少なくないはずである。しかし、カール・マルクスやジグムント・フロイトになって後世から批判されるよりも、蓮實重彦流『凡庸』であっても後世に功績を遺す方がマシなことではないか?
 
ドミトリー・ショスタコーヴィチの交響曲からはズレたが、ヨシフ・スターリンの圧政を凌いだ彼の音楽からはそのようなことが感じられた。