田中角栄内閣総理大臣の登場は日本国の高度成長期の末期に当たる。翌1973年、イスラエルとアラブ諸国〈主にエジプト、シリア、ヨルダン〉とのあいだで第4次中東戦争が始まり、そのことが切っ掛けでオイルショックが始まる。原油価格は急騰し、買い占め売り惜しみが横行した。それは詰まるところ不景気の物価高であり、スタグフレーションである。
 
「今太閤」
と呼ばれ人気者であった角さんは瞬く間に追い詰められていく。
 
〈この項・続く〉

とここまで書いて、話が逸れた。

話はドミトリー・ショスタコーヴィチの後期の交響曲第13番〜15番に飛び、更にはショスタコーヴィチ氏と佐藤栄作氏の死に、果てはマルティン・ハイデガー氏の死に飛んでいる。

その後のアレクサンドル・ソルジェニーツィン氏の『収容所群島』の話は伏線であるが、そのことは徐々に説明していきたい。

僕はオイルショックの起こった1973年の後半から、前にも言ったように短波放送を聴き主に国内事情しか説明しない学校教育と野党に反発していくが、それでも政権交代しないのは不健全であると思っていた。

「日本国憲法を未来永劫変えないこと」即ち護憲及び反戦平和と、消費税減税、法人税増税にはそれぞれひとつやふたつの理屈は着くが、日本社会党〈現・社民党〉と日本共産党は、1970年代も1980年代も現在も〈驚くほど〉自己完結した国内事情のみで政治情勢や与党自由民主党の不正を暴く。それは、まるで幼い未就学児向けの演説に思えた。諸外国がどういう情勢でどの国とどの国が戦争していて、どの国がそれらの元締めになっているのか。そんな説明をしていたら選挙の票が減るのだろう。確かに自民党総裁の角さんも、ウォーターゲートがどうしたとか、文化大革命がどうしたとか、そんな説明は選挙演説ではしなかったような気がする。〈ただし、外交交渉をしていなかった、という意味ではない。〉

その間、衆議院議員総選挙は行なわれなかった。1974年6月参議院議員選挙が行なわれ、我が北海道選挙区では改選数4の内与党自由民主党候補と後に衆議院議員となる高橋辰夫氏が落選、野党候補が改選数4を占めた。全国的にも田中角栄内閣の与党自由民主党は低調に終わり、非改選含めて与野党同数の選挙結果となった。開票速報マニアの僕は、翌日開票結果を知って両親に、
「政権交代は起きるの?」
と訊いた。すると、〈恐らく父が〉
「起きないよ。」
と答えた。僕がしつこく、
「参議院だけでも首班指名は野党候補?」
と訊くと、
「ならないよ。自民党が無所属議員を集めてお終いだ。」
と答えた。僕は、『片山哲内閣以来の社会党政権』がもしかすると実現するかも知れない、と思ったが、それは次回の衆議院議員総選挙に期待するしかなかった。

夏休みになった。われわれは青森・秋田旅行に出掛けた。函館港から青函連絡船に乗る4泊5日の旅行で出発日は1974年8月5日、連絡船は片道4時間も掛かるが、ぎりぎりに行ったせいか危うく桟橋が上がってしまうところだった。乗った船は羊蹄丸か八甲田丸だったと思うが、スタンプも写真も残っていないので定かではない。

青森市ではその頃青森ねぶた祭りが行なわれるが、われわれ親子3人は青森からねぶたも観ず、浅虫温泉にも行かずバス🚌で奥入瀬渓流のホテルに泊まった。翌日は、奥入瀬渓流を観てから十和田湖休屋行きのバス🚌に乗った。十和田湖への道路は拡幅工事中で、バスの運転席は度々空中に浮かんだ。僕は少し怖かったが、今更降りる訳にも行かなかった。

休屋に着くと何処からともなく、
『大相撲の東北巡業をやってるヨ。』
の噂を聞き、その場に行くとただで大相撲東北巡業を観られることが分かった。われわれ親子3人は少しズルをして花道脇の通路に陣取った。その日は全幕内力士の取り組みに4横綱の土俵入りが観られるらしく、その4人とは勝昭こと北の富士勝昭さん、琴櫻傑將さん、輪島大士さん、北の湖敏満さんの4名である。この内存命なのが、勝昭しかいないのが寂しい。

巡業がただなのは地元の名士のお蔭であるが、現在は日本相撲協会の主催で大相撲巡業は有料である。土俵入りは引退して間もない勝昭と琴櫻傑將含めて迫力があったが、吊り天井でない土俵で行なわれた取り組み内容の記憶はない。

取り組みが終わると関取達は風呂場に向かい、更に夏なので浴衣?に着替えた。僕の両親はバスには乗らず高級車に乗り接待される大関貴ノ花を見つけ手帳にサインを頼んだが、
「ダメダメ」
と断られた。改めてバスに向かうと、最前列には琴櫻傑將さん、後の佐渡ヶ嶽理事長がいて手帳へのサインに応じてくれた。更に幕内若獅子関と、後の大関魁傑 將晃関、〈放駒理事長〉が手帳にサインしてくれた。

因みに僕はスヴャトスラフ・リヒテル以外のサインは断捨離のときに見つからず、日本相撲協会理事長のサインも、古葉竹識・元広島東洋カープ監督のサインも、南井克巳調教師のサインも紛失した。

休屋から宿泊地の湯瀬ホテルへはどうやって行ったのかは覚えていない。多分、バスだったと思うが、当時の鉄道事情は記憶になければ最早分からない。ホテルでは歌謡ショーがあり、ボウリング場あり、ゲームセンターありで、遊ぶには飽きない施設だった。

われわれは演歌の歌謡ショーを観たり、ボウリングをしたりもしたが、天気の良い日はバス🚌で八幡平にも行って高山植物を見たり、手焼き煎餅を食べたりもした。それ以外の日は僕は終日ボウリングをして、フックボールを覚えてスコアを伸ばした。最終日8月9日は、函館に帰る日で朝食を終えると、僕はピンボールゲームを始めた。大館行き列車の時刻まで余り残っていなかった。すると、ボーナスゲームになってピンボールが終わらなくなった。ホテルのテレビは臨時ニュースとして、
「リチャード・ニクソン大統領が一連の疑惑の責任を取って辞任の演説を衛星中継。」
していた。僕は中華人民共和国とのことがニクソン大統領辞任に絡んでいるとは思えなかったが、田中角栄総理大臣もそうだとすればこれは怪しすぎる。

結局、ピンボールは何ゲームか残して列車に乗ることになった。湯瀬ホテルから駅はすぐそばでわれわれは大館駅に向かっていった。僕の母は、
「大館には武家屋敷があるのよ。」
と言っていたが、調べると
『武家屋敷があるのは角館。』
だった。われわれは秋田杉の花瓶をひとつ買い、食事をして青森駅に向かった。

青森駅に着いても桟橋までは距離があった。帰りの連絡船は確か津軽丸だった。函館市内まではまだ4時間もあり、ぼくは甲板に出てイルカの航跡を眺めていた。荷物の中には、サインの入った手帳や45回転のEP レコードもあった。

48年後の現在、関取衆も、ニクソン大統領も、角さんもそして僕の両親もほとんど鬼籍に入り、勝昭さんの解説を聞くと懐かしさが込み上げてくる。

9月末になり、今度は札幌でメソポタミア文明展を観てきた。間もなく、僕の家には高性能AM/FM/SWラジオSONY  ICF-5800が来た。僕はベリカード欲しさに受信報告書〈reception report〉を書くが、たとえ小学生でも共産圏に個人情報を流すのは危険だった。最初にベリカードを貰ったのはFEN〈極東放送〉だったが、つぎのモスクワ放送に個人情報を流したのが不味かった。

そして翌10月文藝春秋に立花隆の
「田中角栄研究・その人脈と金脈」
が掲載される。当初は黙殺していた大手マスコミも、外国人記者クラブでの会見を切っ掛けに田中角栄総理大臣は国会で金のやり取りを追及され、内閣総辞職に追い込まれた。次期総理大臣は福田赳夫さんが有力視されたが、椎名悦三郎副総裁の所謂
『椎名裁定』
により、三木武夫氏に決まった。政権交代は、朝日のバカ新聞の言ったようには起きなかったが、内閣総理大臣は代わった。

その頃、2組のKM君のクラスは平和を享受していたが、僕のいた1組はKK君やM君が早くも担任に殺られ転校していった。

世の中では「自民党政権は悪」一辺倒だったが、本当にそうだろうか? 日教組や総評、更には共産主義国は悪くないのだろうか?

僕は11歳になったばかりだったが、学校の授業よりも本や雑誌、短波放送に答えを求めるようになっていった。今度の総理大臣は良い人らしいが、衆議院解散総選挙さえできない人だった。