武漢中共疫病に世界が覆われる前の事ですが、何度か国産・三菱製の小型ジェット旅客機の試験飛行ニュースをご覧になった人も多いと思います。

国家プロジェクトとも言えた「三菱スペースジェット(2019年6月に改称、旧名:三菱リージョナルジェット MRJ)」です。

 

三菱スペースジェット (Wikipedia より)

 

大きな旅客機はボーイング社とエアバス社の独壇場ですが、いわゆる大型ジャンボ機(ボーイング747)の退役に見られるように、燃費や環境に配慮した中小型機に旅客飛行機業界の需要がシフトした為、旅客数100名前後の小型機の市場ならば日本も割って入ることが出来るのではないかという目算だった訳です。

「モノづくり大国」とはいうものの、世界市場の中では自動車産業の一本足打法みたいな状態になっていて、日本の国内製造業は空洞化が進みつつあります。自動車部品が2万~3万点なのに比べて100万点とも言われる飛行機産業で、国内製造業のすそ野の広がりを期待したのです。

 

●三菱スペースジェットの胎動と挫折

 

2002年頃に経産省は小型ジェット機開発案を発表し、ボーイングやエアバスの部品・機体サプライヤーとして実績のある三菱重工業、川崎重工業、富士重工業などに提案しました。

挙手したのは三菱重工。MRJプロジェクトの始動です。

2008年に三菱重工は事業化を発表し、事業会社として三菱航空機を設立。全日空からの発注も受けました。

しかし2011年初試験飛行、2013年の納入予定は延期。初試験飛行は結果として2015年になり、納入予定も現在までに合計6度延期となりました。

そして武漢中共疫病の直撃による市場需要の縮小などもあり、2020年10月に遂に開発は凍結状態へ(三菱による表現は「開発を”いったん立ち止まる”」というもの)。

 

そういった経緯を経て、先日以下の報道が。

 

 

引用記事は→こちら

 

一部の工場まで売っちゃったんですね。

三菱がこれまでに投じた資金は約1兆円。国家プロジェクトですから国も500億円投じました。今年7月に発表された三菱航空機の決算では、債務超過は5559億円に達しました。

完全に”国産旅客機の夢、敗れる”です。

しかしどうもこのプロジェクトの頓挫は武漢中共疫病が原因ではないようです。

こんなにも色々な予定が遅延していたのですから、武漢中共疫病は”とどめの一撃”に過ぎず、事実上の撤退の「体のいい言い訳」になったというのが関係者の一致した見解。

はぁ~、どうしてこうなった・・・

 

ここまで当初の予定から事業が遅延したのは、現在までに三菱スペースジェット(以下MSJ)の「型式証明」をクリア出来なかった事にあります。

型式証明は新しい旅客機モデルが一定の安全基準を満たしているかどうかを国が審査する制度で、クリアすれば後はメーカーが機体ごとに検査を実施するだけになります。

ただ日本は長く旅客機を造っていなかった為、企業側の三菱も審査する国交省航空局も”手探り状態”だったそうです。加えてMSJは海外にも売るので米国や欧州といった海外機関の型式証明との相互承認も必要でした。

これが上手くいかなかったんですね(MSJは現時点でも型式証明は取得出来ていない)。

 

三菱重工製 F-2A (Wikipedia より)

 

日本はYS-11以降、国産旅客機を造っていませんでしたが、三菱重工自体はボーイングなどの有力部品サプライヤーであり、現在でも防衛産業分野にてF-4EJやF-15J(共にライセンス生産)、F-2(日米共同開発)などを自前で造って来ました。

ただし防衛機は防衛省が開発予算から安全面・機能面を含めた仕様の決定と審査を行う為、開発・量産といった商売上のリスクは防衛省が取ってくれます。メーカーはある意味、”お客さん”という立場でいられるんですね。

一方、民間機の場合、これらは全部メーカーが担う事になります。

結局、旅客機の製造自体はある程度出来ても、メーカーとしての総合的なノウハウが足りなかった訳ですね。

 

●戦前の戦闘機と製造メーカー

 

やっぱり戦前の飛行機大国日本が戦後GHQによって航空産業を解体・禁止されてしまい、解禁された後もずいぶん昔のYS-11の生産のみにとどまってしまった事が影響していそうですね。継続と蓄積がなかった事が残念です。

ここで戦前の主だった航空機メーカーを戦闘機を中心にして紹介。

三菱重工の「零戦」はこの前記事にしたので割愛します。

 

川西航空機製 局地戦闘機 紫電21型 (Wikipedia より)

 

紫電21型の別名は紫電改と呼ばれており、そちらの方が呼称は有名ですね。

海軍・零戦の後継機に位置するものですが、登場したのは戦争の末期であり、その頃の戦況は空母に搭載して敵を叩くよりも、日本に襲来する爆撃機から本土の基地や市街地、工業地帯を守る必要があった為、陸上基地から発進する仕様になっています。局地戦闘機とはそういう意味。

画像は米国ペンサコーラ海軍航空基地内の国立海軍航空博物館所蔵のものです。

 

中島飛行機製 四式戦闘機 疾風(はやて) (Wikipedia より)

 

中島飛行機は陸軍・一式戦闘機「隼」(立川飛行機もライセンス生産)で有名で、戦前は東洋最大かつ世界有数の航空機メーカーでした。

実はこの疾風は米軍から「日本最優秀戦闘機」との声もあるようです。

因みにエンジンが陸軍・隼、海軍・零戦共に中島製の空冷星形複列14気筒(名称は海軍・栄、陸軍・ハ25)で離昇出力が1000hp前後だったのに対し、海軍の紫電改、陸軍の疾風は共に中島製の空冷星型複列18気筒(名称は海軍・誉、陸軍・ハ45)とアップしており、離昇出力は2000hpほどありました。

画像は知覧特攻平和会館所蔵のもの。

 

この当時の航空機のレシプロエンジンは星型エンジンが多いのですが、現在ではあまり馴染みがないので、その動きが分かる動画を貼っておきます。

面白いですよ。

 

 

勿論、星型エンジンではないものもありました。

 

愛知航空機製 艦上爆撃機 彗星  (筆者撮影)

 

大東亜戦争初期の海軍空母艦載機として零戦、97式艦上攻撃機と共に大活躍した99式艦上爆撃機の後継機になります。

画像は靖国神社遊就館展示のもの。

 

川崎航空機製 三式戦闘機 飛燕(ひえん)  (Wikipedia より)

 

上の海軍の艦爆・彗星と同様にこの陸軍戦闘機・飛燕はプロペラ部先端が円錐状になっていますね。これは星形エンジではない事を意味します。

彗星と飛燕は、ドイツ・ダイムラーベンツ社で航空機用に開発された液冷倒立V型12気筒(DB601)を愛知と川崎がそれぞれライセンス生産したもの(名称は海軍・アツタ、陸軍・ハ40)を搭載しました。倒立ですから逆V字型(Λ型)になっているのがエンジンの特徴です。

上画像は神戸ポートターミナルで展示された時のものですが、現在は岐阜かかみがはら航空宇宙博物館で所蔵されています。

 

他にちょっと毛色の変わった戦闘機を。

 

三菱重工製 ロケット局地戦闘機 秋水 (朝日新聞デジタル より) 

 

日本陸・海軍が共同で開発を進めたのがこのロケット戦闘機・秋水です。

上に書いてきた例でも分かるように、陸海軍双方は同じエンジンを使用していても名称を別々にするなど、呆れるほど仲が悪くてセクト意識が大変強い組織でした。しかし大戦の末期はそうも言っていられなかったんでしょう。

ドイツからもたらされたメッサーシュミットMe163のわずかな資料を基に設計を始めましたが、終戦時には試作機段階で終わってしまいました。

画像は三菱重工によって復元されたもので、同社の名古屋航空宇宙システム製作所史料室に展示されているそうです。

 

 

中島飛行機製 双発ジェット戦闘攻撃機 橘花 (上:産経ニュース、下:Wikipedia より)

 

海軍の橘花は爆撃による対艦攻撃を目的とした特殊攻撃機で、桜花のような特攻(特別攻撃)専用機とは異なるそうです。

ドイツのメッサーシュミットMe262に関する技術資料を基に製作しようとしましたが、資料の輸送作戦中に多くが失われてしまい、結果的に大部分が日本独自の開発になりました。

終戦時には量産体制に入りつつあったものの、実戦には間に合っていません。

上画像は米国の国立航空宇宙博物館の別館スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターに保管されているものになります。

 

 

 

九州飛行機製 局地戦闘機 震電 (上・中・下共にWikipedia より)

 

海軍の震電は機体後部にプロペラが付いた前翼型(水平尾翼を廃し主翼の前に水平小翼を設置した形態)飛行機で、あまり見慣れない為に面白い形状に思えます。

実は従来型戦闘機ではエンジン、プロペラ、武装の配置が機体の前方に集中しており、操縦席後部から尾翼にかけての部分が無駄なスペースとなっていました。一方、この震電では武装を前方、エンジンとプロペラを後方に配置することで機体を有効活用でき、その結果として機体全体をコンパクトにして空気抵抗を軽減させ、従来型戦闘機の限界速度を超えさせることを狙いとしていました。

エンジンは三菱製の空冷星形複列18気筒「ハ43」で、海軍で多く使用された同社の金星エンジン(空冷星形複列14気筒)の気筒数を増やしたものです。中島の栄→誉と同じパターンですね。離昇出力は2000hp以上あったとされています。

しかし震電は試作試験飛行中に終戦を迎え、また三菱製・ハ43を搭載した他の飛行機も終戦までに実用に達したものはなく、ハ43が実戦に投入される事はありませんでした。

3枚の震電の画像のうち、一番下は米国スティーブン・F・ウドヴァーヘイジー・センターで展示されている操縦席から前方部分です。

 

●戦前の航空機メーカーのその後

 

さて。

戦後GHQによって航空産業を取り上げられた航空機メーカーが現在どうなったかというと。

 

三菱重工

→3分割された後に再統合して現在に至る。

中島飛行機

→12分割され、そのうちの幾つかが統合合併して富士重工(現:SUBARU)となり、防衛産業では陸上自衛隊のヘリコプター等を製造。また分割された1つがプリンス自動車を経て、日産自動車へ。

川西航空機

→分割を経て、現在は輸送機器や産業機器製造の新明和工業へ。海上自衛隊の水陸両用飛行艇で実績がある。分割されたもう一方の明和自動車工業はダイハツと合併。

愛知航空機

→愛知機械工業(日産自動車の完全子会社)へ。

川崎航空機

→1969年に吸収合併されて川崎重工へ。航空自衛隊の哨戒機・輸送機・現ブルーインパルスを製造。

九州飛行機

→西日本鉄道の子会社・西日本車体工業に吸収合併。

立川飛行機

→不動産業・建設業の立飛ホールディングスへ。また当時の技師らが中心となって後のプリンス自動車の母体会社を興し、日産自動車へと至る。

 

戦闘機等の紹介時に出て来た航空機メーカーのその後を書いてみましたが、やはり自動車関連が多いですね。戦後、自動車産業で隆盛を極めるドイツと共通です。メッサーシュミットは戦後は単独ではあまり聞かれませんが。

 

●YS-11とその終焉

 

戦争に敗れた日本は全ての飛行機を破壊され、航空機メーカーを解体され、航空会社を潰され、大学の授業から航空力学の科目が削除されました。

やがて日本独立と朝鮮戦争などの冷戦勃発で、部分的に日本企業の飛行機の製造や運行が解禁され、現三菱重工や現川崎重工は米軍機の整備・修理を受注するようになります。

そして当時の通産省による国産民間機計画が打ち出され、輸送機設計研究協会を経て「日本航空機製造」(資本金5億円のうち政府3億円、民間2億円の出資)が1959(昭和34)年に設立。民間からは現三菱重工、現川崎重工、富士重工、新明和工業、日本飛行機(現川崎重工子会社)、昭和飛行機といった機体メーカーの他、部品メーカー、商社、金融機関が参加しています。

この日本航空機製造によって誕生したが、双発ターボプロップエンジンのYS-11でした。

 

全日空のYS-11 (Wikipedia より)

 

最初の定期路線就航は1965年で、国内での旅客運用は2006年まで続けられましたが、製造元の日本航空機製造は1982年に解散。

国と国内メーカー寄せ集めの特殊法人だった為、ずさんな経営と役人の天下り、責任所在の曖昧さなどで、事業としてはかなりの赤字だったそうです。

またYS-11という機体も、参加した日本メーカーの出自から軍用機の設計思想が色濃く残っており、安全性・快適性・経済性を求める民間旅客機の設計思想と、経済性や快適性を無視して限界性能や耐久性を重視する軍用機では、同じ航空機でも似て非なるものでした。

上記のような理由から、「これ以上の国による赤字補填は国民の理解を得られない」「国内航空機メーカー各社が航空機設計の基礎技術を確立・蓄積したことで、日本航空機製造の設立当初の目的を達した」として、この国家プロジェクトは終焉します。

 

旅客機の企画・設計・生産・販売・金融・アフターサポートには長期的な粘り強い戦略が必要なのですが、日本航空機製造が解散した事で失敗を含めたそれらの経験やノウハウが次世代へ継承されず、その後のMSJ挫折の遠因に繋がってしまったと言えそうです。

 

※ホンダジェットというのがありますが、これはビジネスジェット(プライベートジェット)であり、公共交通や一般大衆を搭乗させる旅客運送を想定したものではありません。