アッツ島の隣には、ノモンハンです。
「ノモンハン英魂之碑」。
1939(昭和14)年に起きたこの”事件”は、事件と言うには全くふさわしくない激戦でした。
戦後、ずっと「ノモンハンは日本軍のボロ負け」という評価(特に容共的な左派メディアによって)が流布されてきましたが、旧ソ連の崩壊後に出て来たロシア側極秘資料によると、ロシア側の人的被害は日本側のそれをはるかに上回っています。
日本軍は圧倒的に優勢な敵の動員兵数や装備の前に、本当に必死に戦いました。
あえてこの戦闘の客観的結果を書くならば
「戦闘自体は引き分け。日本軍は敵軍により甚大な損害を与えるも、装備・兵站問題で撤収。日本側は意図した目的を達せられなかったので、戦略的には負け」
というところでしょうか。
ただ、戦闘の終結後に部隊指揮官級の多くの将校は自ら、あるいは上層部から勧告を受けて自決(当該者は2名)するという、厳しい処分がありました。
この事は当時の軍の悪しき体質として、我々はしっかりと記憶しておかねばなりません。
「忠魂碑」。
日露戦争の戦死者の為に建てられたもので、題字の揮毫は乃木希典。
忠魂碑の隣にある「屯田兵招魂之碑」。
1879(明治12)年、西南戦争で戦死した屯田兵の為に建てられました。
屯田兵由来の「山鼻神社碑」。
説明板に遷座の経緯が書かれていますが、ここでは割愛。
「メレヨン島戦没者慰霊碑」。
梅之助は僭越ながら、同世代一般レベル以上は戦地の知識はあると思っているのですが、このメレヨン島の事は知りませんでした。左後方には戦死者の氏名碑とメレヨン島の位置及び行動経過を示した石板があります。
本当に我々の父祖たちは多くの戦地に赴いたのですね。
改めて深い感謝の思いが。
サイパン島の陥落以降はメレヨン島への補給もままならなくなり、死没者4800名(陸軍2419名、海軍2381名)、生還者1626名(陸軍786名、海軍840名)という結末で終戦を迎えました。亡くなった兵員の殆どは餓死だそうで、兵站を軽く見た日本軍の悲劇が如実に表れています。
「北千島慰霊碑」。
1945年8月18日の「占守島の戦い」はよく知られていますね。
千島・南樺太・北海道の半分を我が物にしようと侵攻してきたソ連軍を、日本軍は各地で撃退し優位に戦闘を進めていましたが、やがて大本営からの停戦・降伏命令によって終結。
もし占守島にて日本側が無抵抗であったなら、北海道はどうなっていたでしょうかね。
この辺りはスターリンの野望や米国の思惑、そして日本側の対応など、タイムラインを追っていくと息詰まるような緊迫感さえ覚えます。
「南方地域戦死者慰霊碑」。
碑文を読むと、ニューギニアから帰還された方が建立されたようです。
「北海道全海軍 英魂之碑」。
そして。
「沖縄戦戦没者慰霊碑」。
沖縄戦では地元・沖縄県の兵の次に北海道出身の兵が多く戦死されました。
合掌・・・
と、ここで。
「アジア太平洋戦争末期、多数の北海道出身の兵士(アイヌ、和人)が沖縄に投入され、その結果、沖縄戦に動員された日本兵のなかでは北海道出身者が最大の犠牲者となった。この事実は、大日本帝国による北海道の人々に対する差別的視点、すなわち棄民化を表す1つの事例である。・・・」(→全文はこちら:pdfです)。
という文章をネット上で見つけました。
ただの一般人が個人ブログなどに書いているのならまだしも、筆者は清末愛砂という室蘭工業大学の教授です。左系の学者は「アジア太平洋戦争」という名称を好んで使用しますが、国立大学の教授がこんな事を学生に教育しているんですよね。
教育の名のもとに、やりたい放題だな!
まあ、こじつけもいいところで、梅之助は吐き気を催しました。
同じく「アジア太平洋戦争」という呼称を使用しているところから、左寄りの内容と推察できる(ちらっと見ましたがやはりそうでした)「沖縄県平和祈念資料館」HPでさえ、
沖縄戦Q&A
Q5 沖縄戦で沖縄についで北海道出身者の死亡が多いのはなぜか?
A5 北海道出身者の多い第24師団(山部隊)は、当初満州に派遣されていたが、1944年に満州から沖縄に移動になり、そのために多くなったと思われる。
と、淡々と事実を記載しています。
清末氏が当時の軍編成等を調べたうえで書いているのかは存じませんが、彼女の文章はとても非論理的で、単に自身のイデオロギーの為の道具として強引に関連付けているとしか思えません。
もし棄民云々を持ち出すなら、理屈上は先ずサイパンでしょうに。サイパンに送られた第43師団、つまり愛知の兵は棄民ですか?バカバカしい。
これは北海道の兵隊さんに対する愚弄にもなります。
静かに記事を書き終えようと思っていたら、とんでもないのを見つけてしまったよ・・・
話を戻します。
札幌護国神社には、札幌ゆかりの歩兵第25連隊を中心とした遺品・記念品などを展示している「遺品殿」という場所があるそうです。
通常は事前連絡のうえで見学可能なようで、また”彰徳苑まつり”や”例大祭”といった祭典時にも一般開放しているそうですが、現在は武漢ウィルスの影響により見学は停止しているとの事。
いつかそちらの方も、と思いつつ、神社の境内を後にしました。
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