6月25日、北鎮記念館で開催された「旭川保守・草の根市民の会」講演会の第二部は、「恵須取(えすとる)の戦い~義勇戦闘隊の勝利」というテーマで、講師は藤村建雄氏でした。

藤村氏は樺太における対ソ戦を専門としており、今年4月に「北方近代史研究所」を設立されています。1974年に公開されるも、ソ連と国内左翼勢力の圧力で事実上の公開中止に追い込まれた映画「氷雪の門」の36年ぶり(2010年)の全国上映にも関わった人で、月刊誌「丸」にも文章を執筆しています。

 

 

話を聞いたところでは、何度か「旭川保守・草の根市民の会」の講演会に招かれているようでした。

7月、下の著書が出版との事。読んでみたい・・・でも値段が3500円+税、うっ!

 

 

講演内容でもある「恵須取」という町ですが。

 

黄色部分が恵須取支庁 1.珍内町 2.鵜城村 3.恵須取町 4.塔路町 (Wikipediaより)

 

旧豊原市(樺太庁所在地)や旧大泊町、映画「氷雪の門」の舞台となった旧真岡町よりもずっと北方に位置していました。終戦時の人口は3万人以上、王子製紙の工場と大平炭鉱で栄え、1945年10月には市制が施行される予定だったとの事。

 

さて、テーマに「義勇戦闘隊」という文字があります。

これは「国民義勇戦闘隊」の事で、1945年3月にまず防空及び空襲被害復旧の為の「国民義勇隊」が編成され、それを基礎として6月に「国民義勇戦闘隊」が組織されました。いわゆる本土決戦に備えて竹やりで「えいやぁ~」と軍事教練を受けていた一般民間人達です。

実際は本土決戦の回避により国民義勇戦闘隊が戦う事はありませんでしたが、樺太・恵須取では例外的に国民義勇戦闘隊がソ連軍と実戦を戦う事態となりました。国内では他に沖縄戦(「鉄血勤皇隊」など。国民義勇戦闘隊の法的根拠となる「義勇兵役法」の成立前に編成され、大きな犠牲を出して組織的戦闘が終結していた為に法律が後追いとなった)があるのみです。

 

 

 

 

しかも国民義勇戦闘隊の加わった恵須取の警備隊(中垣重男大尉:中垣隊)は、16日の戦闘では敵状を甘く見たソ連軍を一時的に撃退・追撃までして、その後は一般避難住民の後衛を務めました。

 

恵須取町の市街地(浜市街) Wikipediaより

 

しかし恵須取の戦いの中では、「大平炭鉱病院看護婦集団自決事件」も起きています。

ギリギリまで傷兵のいる職場を守って脱出が遅れた為に、中垣隊と合流できなかった看護婦たち23名がソ連軍に途中包囲されたと観念、病院から持ち出した劇薬を飲んで自決した事件です。脱出途中で薬の瓶が割れ、致死量に達しない者は手術用メスで手首を切った結果、6名が絶命し、残り17名は近くの造材部の人たちに助けられました。

真岡郵便局員自決事件はそれなりに知られるようになりましたが、この事件は梅之助も不覚にも知りませんでした。

慰霊碑が札幌護国神社にあるそうです。

 

 

(上)札幌護国神社にある樺太大平炭鉱病院自決事件の慰霊碑 (下)碑文の拡大図 (Wikipedia より)

 

札幌護国神社には北海道護国神社以上に北海道・樺太ゆかりの慰霊碑が多くあるようです。ここには訪れた事がないので、梅之助にとって一つ宿題が増えました。

 

ポツダム宣言受諾後の南樺太の戦いは混乱を極めました。度々日本側の停戦軍使は処刑され(この中には阿部庄松・塔路町長も含まれている)、避難住民へも容赦のない機銃掃射が浴びせられた為、多くの一般人が犠牲となりました。上記のような自決事件も多発しました。

樺太で自決事件が多かった要因の一つは、1920(大正9)年の尼港事件(赤軍パルチザンによる歴史的な大虐殺事件)を記憶している人が多かったから、という意見があります。

さらに1945年8月22日には、樺太からの婦女子を主体とする引揚者を乗せた日本の小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸が留萌沖でソ連の潜水艦に攻撃され、小笠原丸と泰東丸が沈没して1,700名以上が犠牲となった事件(三船殉難事件)も起きています。ただし三船を攻撃した潜水艦は、公式には「国籍不明」となっており、今もって表現が改まってはいません。

戦闘は苛烈を極めましたが、その終結後は民間人に寛容だった米英軍とは大違いです。「鬼畜米英」はウソだったものの、「鬼畜ソ連」(←こんな言葉は当時なかったけれど)は真実に近いものがありました(無論、全てのソ連将兵が、という意味ではありません)。

 

結果的に千島とこの樺太での抵抗があったからこそ、ソ連は占領の既成事実化が遅れ、タイミング的に米国トルーマン大統領の「ソ連による北海道占領は認めない」宣言が重なって、北海道は分割されずに済んだのです。もし、ソ連が当初主張した「留萌ー釧路を結ぶライン」の北海道占領が実現していたら、梅之助の住む旭川はラインの北側に相当します。共産圏と直接国境を対峙する事になる戦後日本の歩みも大きく変わっていた事でしょう。

そう思うと梅之助は千島や樺太で戦った日本人たち、犠牲になった人々に対し、頭を垂れても垂れ過ぎる事はないという気持ちです。

 

以上のような内容が藤村建雄氏の著作には詳しく書かれていると思われます。

改めて読んでみたいという想いが、よりいっそう・・・でも高っつ!(最後を世俗的な表現で〆てしまってスイマセン)。

 

 

 

 

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