梅之助にとって8月12~13日の礼文・稚内行き最大の目的は、実はこの稚内公園の「9人の乙女の碑」を訪れる事でした。

最初に息子が「稚内に行ってみたい」と言い出したとはいえ、つい最近当地へ行って来た嫁をその気にさせるのは少々難しく、「礼文島抱き合わせ」という技を使ってまで実現させたのは、この目的があったからです。要はこの記事を書くため、と言っても過言ではありません。

 

 

 

1945(昭和20)年8月9日、翌年4月まで有効だった日ソ不可侵条約を破り日本に参戦したソ連は、日本のポツダム宣言受諾後も武力侵攻の足を止めず、満州・千島・南樺太へと攻め入って来ました。南樺太・真岡(現・ホルムスク)の郵便局で電話交換手として働いていた女子職員にも疎開指示が下されますが、女子職員たちは強く残留を希望。

8月20日朝、ソ連軍が真岡に上陸、郵便局に迫ってきたところで、最後まで職務を遂行し職場を守っていた電話交換手たちは、最後の言葉「皆さん これが最後です さようなら さようなら」を残すと、次々に青酸カリを服毒し9名が絶命しました。

これが9人の乙女の悲劇・真岡郵便局事件の概要ですが、自決事件当時は非番で「真岡にソ連軍上陸」の報を受け、郵便局に向かう途上、ソ連兵に射殺されたり、防空壕に手榴弾を投げ込まれ爆殺された女子職員もいたそうです。

尚、稚内市建設産業部観光交流課の「九人の乙女の物語」によると、最後の通話状況はこう記されています。

 

 同じ樺太にある泊居郵便局長は、当日の状況をこう話しています。
 「午前6時30分頃、渡辺照さんが、『今、皆で自決します』と知らせてきたので『死んではいけない。絶対毒を飲んではいけない。生きるんだ。白いものはないか、手拭いでもいい、白い布を入口に出しておくんだ』と繰り返し説いたが及ばなかった。 ひときわ激しい銃砲声の中で、やっと『高石さんはもう死んでしまいました。交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』という渡辺さんの声が聞き取れた。自分と居合わせた交換手達は声を上げて泣いた。誰かが、真岡と渡辺さんの名を呼んだが二度と応答はなかった」と語っています。

 

戦後、1963年に彼女たちの霊を慰めるために「9人の乙女の碑」が「氷雪の門」と共に建立され、1973年には靖国神社にも合祀されています。

 

ここまでは梅之助もある程度知っている内容だったのですが、今年の春頃、Wikipediaにこのような記載がある事を知りました。

「当初碑文には、自決は軍の命令で、全員が自決したように書かれていた。しかし実際には軍命令は無く、生存者もいたので、碑文の記述は事実とは異なっていた」

えっ?自決は日本軍による強要?

そこで当初の碑文内容を調べてみる事にし、やがてその全文を発見しました。

以下のものです。

 

「昭和20年8月20日日本軍の厳命を受けた真岡郵便局に勤務する9人の乙女は青酸苛里を渡され最後の交換台に向ったソ連軍上陸と同時に日本軍の命ずるまゝ青酸苛里をのみ最後の力をふりしぼってキイをたゝき『皆さん さようなら さようなら これが最後です』の言葉を残し夢多き若い命を絶った 戦争は2度と繰りかえすまじ平和の祈りをこめてこゝに9人の乙女の霊を慰む」(原文)。

 

この悲劇的な事件は、生存者や事情を良く知る関係者も存命しており、すぐに上の記述が間違いであることが指摘されたそうです。

しかし一体、誰が当初の碑文を考えたのでしょう?

そこには事実関係を確認すらせず、何でもかんでも悪い事は日本軍の仕業にすればよい、という戦後の風潮が色濃く反映されていたとしか思えません。

現在の碑文は以下のように変更され、「軍による命令」は消えています。いつ書き換えられたのかまでは分かりませんでした。

 

 

 

「戦いは終わつた。それから5日昭和20年8月20日、ソ連軍が樺太真岡上陸を開始しようとした。その時突如日本軍との間に戦いが始つた。戦火と化した真岡の町、その中で交換台に向つた9人の乙女等は死を以つて己の職場を守つた 窓越しに見る砲弾のさく裂、刻々迫る身の危険、今はこれまでと死の交換台に向かい『皆さんこれが最後です さようなら さようなら』の言葉を残して静かに青酸苛里をのみ、夢多き若き尊き花の命を絶ち職に殉じた 戦争は再びくりかえすまじ、平和の祈りをこめて尊き9人の乙女の霊を慰む」(原文)。

 

実はこの碑文についても梅之助は少々不満です。

何も知らない人がこの文脈を素直に読めば、

「戦いが終わって進駐してきたソ連軍に日本軍が発砲し、真岡は戦火に包まれた」

と読めるではないですか!

事実を書くと、玉音放送にて日本軍は抵抗をやめていたにもかかわらず、ソ連軍は武力侵攻を続けました。真岡でも日本側からの停戦軍使が射殺されるなどした為に、日本軍はやむなく自衛の為の戦闘を開始したのです。

碑文冒頭に「戦いは終わった」とありますが、戦いは終わってなどいなかったのです。ソ連にとって「日本側の8月15日」など関係なく、目指すは戦利品としての南樺太、全千島、そして北海道の獲得だった訳ですから。

 

さて、この碑文の経緯を知った時、そういえば沖縄でも日本軍による自決強要に関する裁判が近年あったなぁ、と思い至りました。沖縄では旧日本軍は本当にとんでもない悪者扱いですが、下のブログ記事を読んだ時にハッとさせられた事があったので、ここで是非紹介させて頂きます。

少々前の記事ですが、井上政典氏のブログ。


沖縄戦にて、洞窟に避難していた民間人を日本兵がやってきて追い払ったという出来事を、その背景と常識的な思考で考えると、何と説得力のある見解ではないでしょうか。

「9人の乙女の碑」碑文問題は、事件後さほど時間も経過していなかった為、すぐに真実が判明しましたが、沖縄戦における幾つかの事件は、沖縄がすぐに米国統治下に入ったので検証する機会すらなかったと思われます。

 

現在の日本人の認識の中で、悪行を数多く行ったとされる旧日本軍。その中には戦後の左翼的風潮を受けて、捏造されたものや誤解・事実誤認を受けているものが相当数含まれていると思われます。

 

 

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