ここではまず冊封体制とは何か、改めて確認しておく必要があります。
冊封とは古代東アジアにおいて、大陸の歴代王朝が周辺国の君主にその地位を認めて政治的な主従関係を確認し、その見返りとして周辺国君主にその統治を認める事を言います。

例えば、朝鮮半島は紀元前3世紀頃、前漢に衛氏朝鮮が冊封されて以来、ほぼ一貫して(例外的に高句麗は隋や唐に果敢に抵抗する事もあったようです)大陸王朝の冊封国、つまりは属国でした。朝鮮が初めて独立国家となるのは、1895年の日清戦争で勝利した日本が清に対して朝鮮を独立国と認めさるまで待たなくてはなりませんでした。
つまり日本が朝鮮を独立させたのです。

 

 

   
上2枚の写真はいずれもWikipediaからの引用ですが、左が韓国ソウル市に1896年まで存在していた「迎恩門」で、右が1897年に建てられた「独立門」。
「迎恩門」は大陸王朝の使者を、朝鮮が臣下の立場に立って出迎える為に建てられたもので、「独立門」は大陸の冊封から離脱出来た事を記念して、迎恩門を取り壊して建てられたものです。写真では独立門の前に取り壊された迎恩門の柱礎だけが残されているのが見えます。
強大な大陸国家と地続きである地政学上の問題を考えると、ほとんどの歴史を属国として過ごした朝鮮の悲哀には同情すべき余地がある為、その事自体は何とも思いません。第一、他国の歴史でもあるし。
しかし、現在の韓国人の多くがこの「独立門」を日本からの独立を記念してのものと誤解しているらしい事には大変呆れています。阿呆か!

さて日本はどうだったでしょう。
古代日本も大陸王朝から冊封を受けていた記述が中国の歴史書に残っています。金印を受けた「倭奴国王」や「邪馬台国の卑弥呼」、そして「倭の五王」の事で、この五王の最後が倭王・武(武は雄略天皇とみられる)。西暦502年頃といわれています。
しかし日本はこの後、冊封を受けた形跡はありません(室町時代に貿易目的で足利義満などが形式的な冊封を明から受けた事はある)。
それどころか、やがて登場する聖徳太子は遣隋使(後に遣唐使)を送りながらも、「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」の有名な手紙で、当時の大陸王朝・隋の煬帝に対し、暗に日本は対等の立場である事を認めさせようと試みています。

 

    

(左) 伝・聖徳太子、(右) 隋の煬帝

 

当時、絶対と思われていた大国に何という気骨ある外交でしょうか。隋に支配されないよう憲法十七条や冠位十二階を制定し、中央集権体制を目指した事も重ね合わせて考えると、聖徳太子は国家というものの意味合いをあの時代と東アジア情勢の中でしっかりと理解していたのでしょう。

ここで「冊封」と混同しやすい概念に「朝貢」というものがあるので、朝貢について整理しておきます。
朝貢とは力のある国に対し、国力が劣る国が謙って貿易をする事で、主に前近代の東アジアにおいて中国の皇帝に対し周辺国が貢物を進呈し、皇帝側が恩賜を与えるという貿易の形式です。ただ冊封と違い、朝貢には政治的な従属関係までは含まれていません。

つまり聖徳太子は遣隋使(朝貢)を送って隋の顔を立てながらも、対等な国家関係(冊封を受けない)を目指していた訳です。ここが朝鮮の歴代王朝との違いになります。
そしてさらに突っ込んで書きますと、日本の遣隋使や遣唐使は隋・唐にとっては朝貢だと解釈していたでしょうが、日本側の実際の思惑は大陸の進んだ文化・制度を取り入れる為のもので、意識としては明治維新後に西欧に人材を派遣して近代技術・文化を取り入れた時の感覚と同じだったのではないかと思われます。
しかしその遣唐使も、894年に菅原道真による建議で中止されて以降は再開することなく、やがて唐の滅亡によって終了してしまいます。菅原道真の建議とはこのようなものでした。

・唐の政情が不安定になって来た事
・海難事故による人材喪失
・日本が唐から学んだ文化・学問・技術が一定レベルに達した事
・遣唐使が朝貢使のように扱われるのは国辱である

少なくとも菅原道真の認識では「遣唐使は朝貢に当たらない」というものだった事が理解できますね。
遣唐使の廃止によって日本は完全に大陸の冊封体制と決別し、この後日本国内では国風文化が花開く事になります。
 

 

(左)「鑑真和上東征絵伝」に描かれた遣唐使船(唐招提寺蔵)

(右)菅原道真像(大宰府天満宮蔵)

振り返ってみると日本は歴史を通して、大陸王朝とは貿易や文化・制度の導入といった実利で結びつきながらも、政治的には対峙することが度々あった事に気付くでしょう。
日本は663年に友好国であった百済を助ける為に、唐・新羅連合軍と「白村江の戦い」と呼ばれる古代の大戦争を戦い、1274年からは元・高麗連合軍との元寇を戦い抜いています。また1592年から始まった豊臣秀吉による文禄・慶長の役は明・李氏朝鮮との大戦争であり、近代に至っては1894年の日清戦争、1937年の支那事変と、日本と中国大陸は昔から必ずしも仲が良い間柄とは言えないようです。
そしてこれらの戦いのうち、秀吉の戦争と支那事変を除いた他は、日本の安全保障に深刻な影響を及ぼす中国の冊封体制との対決であったと言えるのです。
先人たちはこれらの戦いを通して日本という国を守って来たのですね。

現在、中共とは緊張関係にありますが、こうして歴史を俯瞰してみればその事自体、そう珍しい事ではないようです。ただ、昔と違い現代の価値観に生きる我々は、決して自ら戦争による問題の解決を望んではいけないですし、武器・兵器の使用だけが国を守る戦いでもありません。最も重要な事は、価値観を同じくする国々としっかりと同盟・協力関係を構築し、中共を封じ込める外交政策などで戦っていく事なのです。
我々は今、国を守るという決意や覚悟を、先人たちから問われているような気がしてなりません。


【関連記事】
中共による「現代版・冊封体制」の野望を挫け①(2014/09/19)