ジョン万次郎になれなかった男――ジョセフ・ヒコ(4)
ペリーの浦賀来航のおよそ1年前の嘉永5年6月5日(1852年7月21日)、オランダ商館長のヤン・ドンケル・クルティウスは長崎奉行に「別段風説書」を提出し、アメリカが日本との条約締結を求めており、そのために艦隊を派遣することを報告しています。アメリカはこの件を秘密事項としていなかったため、オランダの知るところとなったわけです。さらに、6月25日付のオランダ領東インド総督バン・トゥイストからの長崎奉行宛の「大尊君長崎御奉行様」と題された親書では「長崎港での通商を許し、長崎へ駐在公使を受け入れ、商館建築を許す。外国人との交易は江戸、京、大坂、堺、長崎の5か所の商人に限る」などアメリカの要求に対する対応についてのオランダの推奨案を提案しています。正弘はこのオランダの提案を溜間詰の譜代大名や海岸防禦御用掛(海防掛)などに回覧し、意見を求めます。諮問を受けた諸大名の返答は、「通商条約は結ぶべきではない」というものでした。長崎奉行はオランダ人の報告の内容に疑義を投げかけます。というのも、以前にイギリスの香港総督ジョン・バウリングの来航がオランダにより予告されましたが、実際には渡航はなかったことから、オランダの報告の信憑性は低いと考えたからです。このため、ペリー来航に対する備えは三浦半島を防備する川越藩、彦根藩の兵を増やす程度にとどまりました。
このように、ヒコが遭難しアメリカに上陸した前後は、ペリー出港の直前の時期にあたっており、まさに幕末の動乱期が始まるタイミングでした。
ヒコはサンフランシスコに上陸した後、合衆国政府の方針により日本へ向かうペリー艦隊と合流するため香港に向かったことは先に紹介しました。しかし、ペリー艦隊と合流できず、再びアメリカへ向かうことを決意します。嘉永4年9月(1851年10月)にサンフランシスコに戻ります。サンフランシスコ上陸後、ヒコは亀蔵、次作と別れて下宿屋の下働きなどをして糊口を凌ぐこととなります。
ヒコたち日本人のサンフランシスコ上陸は、同地の人々の話題を呼ぶこととなります。ヒコたちはダゲレオタイプ(銀板写真法)の写真機で撮影され、その写真のスケッチが新聞「イラストレイティド・ニュース」で紹介され、人々の注目を集めることとなります。サンフランシスコの社交界でも大人気で、ヒコたちは着物を着て舞踏会に頻繁に出席したと伝えられています。程なくして、ヒコは、税関長のサンダースに引き取られることになります。サンダースは税関長を務める傍ら、銀行業などを営む実業家でした。地元の社交界に出入りしていたヒコと、地元の有力者であるサンダースが出会うのは、難しいことではなかったでしょう。ヒコはサンダースに伴われてニューヨークに赴いています。また、1853年9月15日(嘉永6年8月13日)にはアメリカ第14代大統領のフランクリン・ピアースと会見しています。
ヒコはサンダースの援助のもとボルチモアのミッション・スクールで学校教育を受けさせてもらい、また、1854(嘉永7)年10月にはカトリックの洗礼を受け名前をジョセフ・ヒコ(Joseph Heco)と改めます。
ヒコはサンダースの秘書となり、サンダースの供をしてニューヨークを訪れます。この時、ヒコはガス燈や蒸気機関車を初めてみることになり、大いに驚くことになります。ヒコは後に、カリフォルニア選出の上院議員のウィリアム・W・グウィンの秘書となりワシントンD.C.に赴くこととなります。ヒコはサンダースやグウィンと過ごす中で、ピアース大統領や、ブキャナン大統領と会見します。ヒコは、大統領と会見した初めての日本人、ということになります。