戦国時代のお公家さん――二条尹房(2) | アカエイのエピキュリアン日記

戦国時代のお公家さん――二条尹房(2)

二条尹房は、二条家第12代当主・尚基を父として明応5年(1496年)に生まれました。母は家女房とされていますので、門地の高くない女性であったと考えられます。天皇は第103代・後土御門天皇、関白および右大臣は近衛尚通、太政大臣は一条冬良、左大臣は花山院政長、内大臣は父の二条尚基、将軍は足利義澄(11代)という顔ぶれです。

 

[二条家略系図]


明応6年(1497年)6月に、父・尚基は関白に任じられます。しかし、就任5か月後に27歳で薨去してしまいます。これにより、尹房は2歳にして二条家の家督を継承することとなります。とはいえ、2歳の幼児ですので、祖母の水無瀬兼子が後見し、養育します。母ではなく祖母が養育したということから見ても、母の門地が低かったことが察せられます。
永正5年(1508年)、13歳の時に元服し、正五位下に叙されます。家の慣例に従って将軍から偏諱を受けて尹房と名乗ることとなります。この時の天皇は第104代・後柏原天皇、関白と左大臣は九条尚経、右大臣は鷹司兼輔、内大臣は三条実香です。翌年正月には侍従に、3月には左近衛少将に任じられます。さらにその翌年の永正7年(1510年)の正月には従四位下に叙され、3月には左近衛中将になります。そして、永正8年(1511年)3月には従四位下から3階級昇叙して従三位となり、公卿に列します。その後も、永正9年(1512年)6月には権中納言、永正10年(1513年)7月には権大納言、永正11年(1514年)6月には右近衛大将、11月には正三位、永正12年(1515年)12月には従二位に叙され内大臣、永正13年(1516年)4月に左近衛大将、永正14年(1517年)正月に左馬寮御監と、二条家の当主として急速に冠位と官職を上昇させていき、永正15年(1518年)には関白に就任します。この時の天皇は後柏原天皇、左大臣は鷹司兼輔、右大臣は三条実香です。5月には内大臣から右大臣に転じます。さらに大永元年(1521年)7月には左大臣に転じ、朝廷官人の首座に就きます。翌年の1月には従一位に叙されます。大永5年(1525年)4月、在職7年にして関白を辞職。天文2年(1533年)2月には准三宮宣下を受け、翌年の12月には関白に還補されますが、これは後奈良天皇即位礼での印明伝授のためであり、天文5年(1536年)10月には同職を辞します。印明伝授とは天皇の即位儀式の中で行われるもので、即位する天皇に対して印相と真言が伝授されるものです。この伝授は二条家の者が行うのが慣例で、このため、尹房が関白に補任されたわけです。
尹房は、大永5年(1525年)に関白を辞し、その後、大永8年(1528年)には備前国へ一時下向します。これは家領回復のためで、これ以後、尹房はしばしば、自家の荘園への下向を行います。これは当然、横領の懸念があるからです。尹房が生まれたのは応仁の乱の19年後。大乱が終結し、世情は安定してもいいはずですが、実際は、そのようにはなりませんでした。将軍の膝元である京都での戦闘を収められず、長期にわたって京都を戦乱の巷に落としたことにより、将軍の権威は失墜。その威令は軽んじられることとなります。さらに、尹房の誕生の3年前の明応2年(1493年)には、将軍の足利義材が8代将軍・義政の妻の日野富子、管領・細川政元らによって将軍職を追われるという事件が起こります。将軍が家臣によって解任されるという異例の事態は、将軍の権威を一層低下させました。将軍職は、義材の従弟の義澄が継ぐこととなります。一方、追われた義材は、将軍職の剝奪に納得せず、復権を目指して有力守護の間を流亡します。これによって将軍家内に家督争いの種がまかれることとなります。紛争を調停、仲裁すべき将軍家の権威が失墜する中で、自らの財産や権利を守るには、実力、即ち武力によるしかない、という考えが守護や国人たちの間に広がることとなります。
永正4年(1507年)には、将軍・義材を追放し、「半将軍」と呼ばれるほどの権力を得た細川政元が、家臣に暗殺されます。細川家内では政元の死後、家督をめぐる争いが起こります。将軍家に続き、それまで家督争いに無縁であった細川家でも家督争いが起こることにより、幕府の統制力はさらに低下し、その威令はほぼ地に落ちた状態となります。
そして、尹房が元服した年の4月には、西国の雄・大内氏に支えられた足利義尹(義材・義稙)が上洛を果たします。これにより、11代将軍・義澄は京を退かざるをえなくなり、義尹が将軍に復職します。尹房の元服は義尹の入京の8か月後のことです。尹房の「尹」の字は、元服時に将軍職にあった義尹の一字を拝領したものです。
尹房が廷臣としての第一歩を踏み出したのは、時代が戦国時代へと大きく歩みを進めた時期でした。既存の権威は次第に軽んじられるようになり、実力、即ち武力が黒白を決する時代となっていきます。権威を後ろ盾にしてきた貴族にとっては厳しい時代の到来です。実際、荘園の横領が横行し、貴族たちの家計を支える荘園からの貢納物は減少の一途をたどります。
尹房が散位となって後、自領へ頻りに下向したのは、多少なりとも荘園を確保するためです。中でも、加賀国井家荘は、藤原北家・勧修寺流の庶流である勧修寺家との係争関係にある荘園でしたので、長期間にわたって在荘します。井家荘は、もともと、勧修寺家が領家職である荘園でしたが、鎌倉時代末期から南北朝期に、隣接する小坂荘を所有する二条家が横領の動きを顕著にします。二条家は摂関家、勧修寺家は名家という家格の違いから、二条家の主張が優勢となります。それでも、勧修寺家は領家としての権利を手放すことはせず、応仁の乱後には、勧修寺政顕・尚顕父子が同荘に下向し、二人合わせておよそ30年の長きにわたって同荘の経営を行います。しかし、はかばかしい成果を得ないまま、天文4年(1535年)、尚顕は加賀を去ります。その翌年、尹房は嫡男の晴良の元服の儀を行った後、二度目の関白職を辞して井家荘に下向します。下向に際しては、本願寺からの安堵の折紙を得ています。尹房は加賀に5年間滞在し、荘園の維持に努めますが、勧修寺家同様、上首尾とはいかなかったようです。
加賀は、長享2年(1488年)の一向宗徒を中心とした一揆により守護方が敗北し、以後およそ100年にわたって一向宗門徒により統治された地域です。尹房が下向にあたって本願寺からの折紙を得なければならなかったのは、本願寺の許可なくして荘園の経営を行うことは難しかったからです。そして、勧修寺家、二条家の直務が不首尾に終わったのは、一向宗徒の力の強い同地で、国人らを支配下に置くことが困難であったからでしょう。
尹房は天文10年(1541年)に帰京します。この時、嫡子の晴良は17歳、正二位、権大納言の地位にあります。晴良は元服の年の11月には侍従となり、その翌年には左近衛権少将、従四位下、さらに同年8月には左近衛権中将に転任、翌天文7年(1538年)には従三位に昇って公卿に列します。その翌年には権中納言、翌天正9年(1540年)には正三位、そして尹房が帰京した天文10年(1541年)には従二位、権大納言というように、摂関家である二条家の嫡子として急速に冠位と官職を上昇させていきます。その後も、正二位(天文11年・1542年)、左近衛大将(天文12年・1543年)、内大臣(天文14年・1545年)、右大臣(天文15年・1546年)、左大臣(天文16年・1547年)と年を追って昇進します。そして、天文17年(1548年)には関白、内覧に任じられ、翌年には従一位に叙されます。その後、天文21年(1552年)には左大臣を辞し、翌年には関白を辞して公職を退きます。永禄9年(1566年)には准三宮宣下を受けます。永禄11年(1568年)には前任の関白・近衛前久が出奔したため、15代将軍・足利義昭の推挙により再び関白職に就き、以後10年、同職を務めます。二度目の関白在任中の元亀元年(1570年)には足利義昭の命を受けて織田信長と浅井長政・朝倉義景連合軍との調停に携わり、近江、美濃、越前間に和睦を成立させました。信長は、浅井・朝倉・三好・本願寺連合軍による挟撃の危機を脱することとなります。
余談が長くなりました。尹房の話に戻りましょう。井家荘から帰京した後、天文13年(1544年)には、大内氏と尼子氏との争いの調停のため、中国地方に赴きます。「公卿補任」には「在国備後」となっていますが、行先は出雲であったとの説もあります。
尼子氏は出雲の守護代から戦国大名となった家です。当初は、大内氏の麾下に加わって、足利義材(義尹、義稙)の上洛に随って上洛しています。しかし、伯耆、隠岐、備後などへと支配地域を広げるにしたがって、大内氏と対立関係になっていきます。天文9年(1540年)には、第5代当主・尼子晴久が3万の軍勢を従えて大内方の安芸の毛利氏の本拠地である吉田郡山城を攻めます。しかし、毛利氏を救援するため大内氏が援軍を派遣したことにより、尼子勢の攻撃は失敗に終わります。
その2年後の天文11年(1542年)には、今度は大内氏が、当主の大内義隆を総大将として3万の軍勢で尼子氏の本拠の月山冨田城を攻めます。しかし、堅城として知られる月山冨田城を攻めあぐみ、膠着状態のまま1年4か月を費やします。大内軍には厭戦気分が横溢し、脱落者が相次ぎ、ついには撤兵を余儀なくされます。天文12年(1543年)には、尼子晴久は大内氏の支配地となっていた石見銀山を奪取。尹房が下向した天文13年(1544年)頃には、尼子氏は因幡守護・山名誠通を従属させ、一時的に因幡国への影響力を強めますが、但馬国守護・山名祐豊の因幡への侵攻により同国への影響力は後退します。また、この年7月には尼子晴久自らが兵を率いて備後に出陣します。しかし、晴久出陣の間隙をついて、大内氏は石見銀山を奪い返します。
尹房が下向した時期が、晴久の備後出陣の時期であるならば、尹房の行き先は備後となるでしょう。しかし、それ以前ならば、出雲の可能性があります。
尹房の目的が大内氏と尼子氏との和睦の仲介であるならば、大内側とも会談の機会があったと考えられます。尹房が周防へ赴いたか、大内側から使者が来訪したかはわかりませんが、この縁がきっかけとなったか、翌天文14年(1545年)、大内氏の招きもあって、次男の良豊とともに周防に下ります。