戦国時代のお公家さんーー一条教房 | アカエイのエピキュリアン日記

戦国時代のお公家さんーー一条教房

一条教房は五摂家の一つ、一条家の第9代当主であり、戦国大名の土佐一条家の家祖です。
一条家は九条家第3代当主である九条道家の三男・実経から始まります。実経の父の道家はなかなか興味深い人物で、長男・教実、次男・良実、三男・実経がそれぞれ関白、摂政、あるいはその両方の職に就き、長男・教実は九条の家名を継ぎ、次男・良実は二条家を、四男・実経は一条家をそれぞれ起こします。この3家の家格はいずれも摂関家で、総称して九条流摂関家と呼ばれます。さらに、道家の一子の三寅は、実朝暗殺後に空位となっていた征夷大将軍に就任すべく関東に下向します。元服後は頼経と名乗り、鎌倉幕府第4代将軍となります。このように公武にわたって人脈を築いた道家は、承久の乱でもしぶとく生き残り、一時は権勢を誇りますが、後に、北条氏との間に軋轢を生じ、失脚の憂き目を見ることになります。道家は、三男・実経を寵愛していたようで、自らの邸宅である一条殿を譲ったほか、九条家に伝わる「後二条師通記」「玉葉」「玉蘂」などの文献を実経に伝えます。嫡流が相続すべきこれらの文献を一条家に伝えたことにより、南北朝期に、九条家と一条家との間で九条流の正統を巡って争論が起こり、時の後光厳天皇の宸裁により両家ともに嫡流であるという決定が下されました。このように、一条家は九条家とともに五摂家中でも近衛家に次ぐ序列に位置づけられることとなったわけです。

 

[一条家略系図]


一条教房は応永30年(1423年)の生まれで、父は一条家第8代当主の兼良、母は中御門宣俊の娘の小林寺殿です。時の天皇は後花園天皇、将軍は5代将軍・足利義量です。
教房の父親の兼良は一代の碩学として知られた人物です。同時代の人々から「日本無双の才人」と評され、自ら「菅原道真以上の学者である」と自負していた兼良は、上級貴族として必須の有職故実を始めとして、和歌、連歌、能楽、古典文学、漢文の素養など、その興味の範囲は幅広く、かつ、深いものでした。学者としての業績は並ぶ者のない兼良でしたが、政治の面では、むしろ、不遇をかこちました。五摂家の一つ、一条家の御曹司として順調に昇進を重ねた兼良は、永享4年(1432年)の8月13日に摂政、一座、内覧、藤原氏長者の宣下を受けます。しかし、そのわずか2週間ほど後の8月28日に左大臣を辞任、さらに10月27日には摂政・内覧を辞し、一座・藤原氏長者の地位を失います。これは、10歳で践祚し、11歳で即位した後花園天皇が、この年、14歳となり、元服の儀式を行ったことと関連します。後花園天皇の2代前の後小松天皇の元服の時には摂政の二条良基が加冠役を、左大臣の3代将軍・足利義満が理髪役を務めたことを先例として、二条家の当主が加冠役を、将軍が理髪役を務めるべきとの主張が採用され、二条持基が摂政に就任して加冠役を、6代将軍・義教が内大臣から左大臣に昇進して理髪役を務めることになり、これに伴い、兼良は摂政と左大臣の職を辞することとなったわけです。この後、兼良は文安3年(1446年)に太政大臣宣下を受けるまでは官職につくことなく、散位の境遇に甘んずることになります。太政大臣の職を得た翌年には関白、内覧の宣下を受け、享徳2年(1453年)まで、足掛け6年の間、この職にとどまります。関白を退いた後、准三宮の称号を得ます。しかし、才学に優れた彼の官歴はこれで終わりではなく、応仁元年(1468年)に再び関白に就任します。前回、九条政基の記事でも紹介しましたが、応仁の乱勃発時に関白の座にあったのが、この兼良です。文明13年(1481年)、80歳で亡くなりますが、その死に対して、「五百年来この才学無し」と惜しまれたと伝わります。
一条家歴代当主の中でも傑出した存在である父のもと、嫡子である教房は永享10年(1438年)、16歳で元服します。教房の「教」の字は、時の将軍の足利義教の一字を拝領したものです。元服に伴い正五位下に叙せられ、廷臣としての第一歩を踏み出します。永享11年(1439年)には権中納言に任じられ、従三位に叙せられます。嘉吉2年(1442年)に正三位、文安元年(1444年)に権大納言、文安3年(1446年)に従二位、文安5年(1448年)正二位、左近衛大将、享徳元年(1452年)内大臣と順調に官位と官職を進め、康正元年(1455年)には右大臣となり、その2年後の康正3年(1457年)には左大臣に任ぜられ、廟堂の首座に就くこととなります。その翌年の長禄2年(1458年)、36歳にして関白、氏長者となり、廷臣の頂点に立つことになります。この時、天皇は第102代・後花園天皇、将軍は8代・足利義政です。廟堂の主な顔ぶれは太政大臣・二条持通、左大臣・一条教房、右大臣・近衛教基、内大臣・足利(源)義政です。教房は関白を5年務め、寛正4年(1463年) に同職を辞します。以後は官職につくことなく、散位として過ごします。替わって嫡男の政房が、一条家の後継者として政界での活躍を開始します。教房が関白を辞して廟堂を去った年、政房は19歳にして従三位の官位を得、殿上人となります。翌年の寛正5年(1464年)には権中納言兼左衛門督、その翌年には左近衛中将、さらにその翌年には正三位、そして、その翌年の文正2年(1467年)には従二位に叙され、権大納言に任じられるというように、摂関家の嫡子として順調に昇進を重ねていきます。教房は、おそらく、その間、政治向きのことは嫡子の政房に任せて、楽隠居の状況ではなかったでしょうか。その上、この年には、父の兼良が関白に就任していますので、教房としては、政治向きのことに関しては自分の出る幕はないという状況になっています。教房の考えでは、摂関家の嫡子としての役割を終え、無事に後継者の政房に後事を託して悠々自適の隠居生活を過ごそうということだったのかもしれません。しかし、この年は、教房として唯一といっていい、波乱の年となりました。この年の3月5日に文正は応仁に改元。そして、京都の歴史の中では最大の事件である応仁の乱が勃発します。この時、教房、45歳です。
教房は興福寺大乗院門主である弟の尋尊を頼って奈良に避難します。父・兼良、弟・冬良も同様に尋尊のもとに身を寄せます。一方、教房の嫡男の政房は摂津・福原の福厳寺に避難します。この寺は、隠岐に配流された後醍醐天皇が再起を図って島を脱出、京へ還幸する途次に逗留したことで知られています。後醍醐天皇の行在所として使われた同寺を疎開先としたことが、政房の悲劇の原因となります。応仁の乱は、東軍の主将を細川京兆家の当主の勝元が務め、西軍は山名宗全を中心として、主に京都を主戦場とした戦われたものです。しかし、戦いは京都のみで行われたのではありません。文明元年(1469年)、東軍の山名是豊・宇野政秀と西軍の主力の大内正弘が摂津の地で激突。この戦闘の最中、山名是豊・宇野政秀の軍勢が福厳寺に乱入。政房は抵抗する間もなく、兵士の長槍に心臓を一突きされ、「南無西方極楽世界阿弥陀仏」と唱えて絶命したと伝えられています。享年24。一条家の次代を担う政房の非業の死は、教房を始めとして父・兼良、叔父・尋尊にとっては大きな衝撃でした。のみならず、権大納言という高位高官の死は、後花園上皇、後土御門天皇以下の朝廷の重臣たち、さらには東西両軍の武将たちにとっても衝撃的な出来事として受け止められました。
教房は、政房の死の報を、移住していた土佐の地で受けました。教房が土佐へ下向したのは応仁の乱勃発のおよそ1年後の応仁2年(1468年)9月のことです。土佐には一条家の所領である幡多荘がありました。土佐は細川宗家の京兆家が守護を務めていますが、京兆家は三管領の一家なので在京が常でした。このため、細川一門の遠州家が守護代として土佐の地を統率していました。応仁の乱が勃発すると、遠州家も宗家を援助すべく上京します。これにより、土佐における細川家の影響力が後退することになり、一部国人が独立志向を強めます。幡多荘も、そうした動きとは無縁ではありませんでした。さらに、土佐の隣国の伊予の守護の河野氏は西軍に与し、長年対立関係にある細川氏の所領である土佐へと侵入を図りました。こうした状況の中で、幡多荘を守るためには、一条家からしかるべき人物が下向して、荘務を直接監督するべきであると考えられたわけです。では、誰が下向すべきか? 父親の兼良はこの時関白の座にあり、畿内を離れることは困難です。嫡子の政房も権大納言の官職を得ているので、下向するには適任ではない。後に教房の跡を継いで一条家の第10代当主となる冬良はこの時わずかに5歳で、荘園の直務を担うには幼すぎます。結果として、散位で官職についていない教房が適任であるということになったのでしょう。9月6日に奈良の成就院を出立、同月25日には和泉の堺で乗船し、途中、神浦、井ノ尻を経て幡多荘に到着しています。船は土佐の国人・大平氏の用意したものです。大平氏は細川氏の被官で、一条家とも縁続きといわれる一族で、教房の土佐下向には、大平氏の要請もあってのことといわれています。
教房は幡多荘に到着すると、荘園内の国人を掌握し、反抗する勢力を制圧、さらに河野氏の侵入を排除して、荘園の確保に動きます。程なくして、領内の秩序を回復し、荘園内の安定を取り戻します。教房が荘園内を掌握できたのは、従一位、前の関白、即ち太閤殿下という肩書がものを言ったようです。前回紹介した九条政基が下向した和泉国の日根荘では、在地の国人は、太閤殿下の威光を守護や根来寺の介入を排除する方途として利用するしたたかさを持ち合わせていましたが、土佐では、教房のような最上位の貴族の下向などは前代未聞のことで、それ故に、教房は土佐で敬われる存在になりえたのだと思います。土佐には七雄と呼ばれる七家の有力な国人が割拠し、その軋轢を守護代である遠州家が上位の権威として仲裁・調停してきたのですが、細川家の影響力が後退した後、一条家がその権威の空白を埋めることとなります。一条家は、土佐においては別格の家柄として七雄の上位に位置し、盟主の地位に置かれます。また、影響力が後退したとはいえ、細川家は他の守護家とは異なって、この時点では、宗家の京兆家の統率のもと、一族の結束は乱れていません。このため、土佐は応仁の乱の最中も、他の地域に比べて安定した地域でした。このことが、教房が幡多荘の直務に成功した大きな要因だと考えられます。
荘園内の動揺を抑えた教房ですが、応仁の乱は収まる気配がなく、教房は土佐の地を避難場所として逗留を続けることとなります。土佐下向は幡多荘を安定させるというのが第一の目的で、それをおおむね達成した以上、再び奈良へ戻るという選択肢もあったはずです。しかし、教房はそうはしませんでした。彼は土佐の土地が気に入ったようで、応仁の乱の期間中も、また、応仁の乱終結後も、土佐の地に留まり続け、同地で没しています。
教房が土佐に留まることを決心した理由は、先にも述べたように、同地が応仁の乱の最中も、比較的安定していたことがあるでしょう。さらに、土佐の地は京都に比べて温暖で、暮らしやすい土地です。そして、この場所は、堺から中国の明への商業ルートの寄港地の一つでもあります。つまり、堺経由で京都の情報が迅速に入手でき、さらに明からの珍品も容易に入手できる地の利があるわけです。おそらくは、こうした条件が気に入って、教房はこの地に腰を落ち着けてしまいます。よほど気に入ったのか、父の兼良を呼び寄せて滞在させているほどです。教房は一条家の家督を、40歳以上離れた弟の冬良を自らの養子として継がせ、自身は幡多荘に留まり続けます。亡くなったのは応仁の乱終結6年後の文明12年(1480年)のことです。享年58。この時、父の兼良は存命でした。ちなみに父の兼良が亡くなったのは教房の死去の翌年の文明13年(1481年)のことです。享年80でした。
教房の生涯は、前回紹介した九条政基に比べると、波乱の少ないものです。おそらく、これは、政基より教房の方が22歳年長でり、政基よりも36年前に亡くなったのが一因であると思います。教房が生まれたのは、4代将軍・足利義持の時代で、元服して官位を得た時の将軍は6代・義教です。室町幕府は、初代・尊氏、2代・義詮、3代・義満の代まで南朝との戦いを続けており、草創期の動乱の時期です。義満は南朝との和解を成立させ、戦乱に終止符を打つことに成功します。その後、義満は、各地に強大な権力を築いた守護の家督争いに介入してその弱体化を図り、また、人事権を掌中にすることによって朝廷と仏教界を膝下に置きます。これによって、将軍を頂点とした支配構造が確立し、以後、その枠組みをもとに幕府は運営されていくことになります。義満の息子の時代、すなわち、4代・義持、6代・義教の時代は、義満が確立した幕府権力が絶頂の時代であり、不安定な時期の多い室町時代にあっては、最も安定した時代でした。「万人恐怖」といわれるほどの強権的な恐怖政治を行った足利義教の時代に元服し、廷臣としての生活を始めた教房ですが、将軍・義教は教房が廷臣としての経歴を開始した3年後の嘉吉元年(1441年)に暗殺されてしまいます。その後は、義勝、義政の治世下で、教房は順調に昇進を続け、関白の座に就くことになります。同職を無難に勤め上げ、後事は次代の政房に託した教房は、41歳にして隠居の境遇となります。この後は、政房の後見をしつつ、太閤殿下として悠々自適の余生を過ごすつもりだったのではないでしょうか。教房は、土佐下向後の荘園経営の手並みを見ていると、決して凡愚な人物ではないようですが、父・兼良ほどの才学に恵まれていたようではなく、従って父のような自負と野心は持っていなかったように思えます。父・兼良はその自負と野心ゆえに、朝廷内で浮沈を繰り返しますが、教房は、そうした政争に翻弄されるような境遇とは無縁です。一言でいえば、摂関家の嫡子として無難な人生を歩んだ人、といえると思います。しかし、その無難な人生の中に、応仁の乱という不測の一大事が出来します。これによって、教房は土佐下向を余儀なくされるのですが、都を後にしたことをそれほど気に病んでいたようでもないのは、教房の人間性をうかがい知れるような気がします。都の人士が鄙へ下るというのは、なにがしかの抵抗感があるものです。いわゆる、「都落ち」の落剥感のようなものを抱きがちだと思うのですが、教房は土佐に下って後、上京の動きを見せていません。もちろん、それには、応仁の乱が思いのほか長引いたのが第一の理由でしょうが、乱の終結後も京へ戻る動きを見せず、自らの邸宅の普請を行ったり、街並みの整備を進めたりと定住を伺わせる動きを見せています。こういう点から考えて、教房は順応性の高い人物だったような気がします。また、教房は円満な人柄だったようで、彼の死後、土佐の国人十余人が、主人を慕って出家したとも伝えられています。
教房は、土佐下向後、上京することなく同地で没しており、また、彼の子孫が同地に土着して戦国大名化します。この家系は、五摂家の一条家の分家として土佐一条家と言われます。したがって、この家は教房を初代とする、と言っても間違いではないのですが、教房は分家を立てて土佐で独立する考えはなく、応仁の乱の疎開先として幡多荘へ下ってきたにすぎないので、あくまでも、彼の意識のうちでは土佐在住は隠居暮らしに類するものと考えていいと思います。彼は、あくまでも都の貴族で、生涯、その立場を変えることはなかったと思われます。土地に根差した領主化するのは、教房の嫡子の房家の代からのことで、土佐一条氏の初代は、この房家であるとする考え方の方が主流のようです。
房家の誕生の年については、文明7年(1475年)と文明9年(1477年)の2説あり、判然としていません。母は、幡多荘内の国人の加久見氏の女です。父・教房が没した文明12年(1480年)時点で5歳、ないしは3歳ということになります。
房家は7~8歳(10~11歳)の頃母と共に、中村御所から足摺岬金剛福寺へ移ったと言われています。これは、父・教房の死後、荘内の国人の間で争いが起こり、その危険を避けたためであるとの説がもっぱらのようです。しかし、必ずしも、荘内の内訌が原因ではなく、仮に内訌がなくても、彼は中村を去ったのではないか。というのも、幡多荘は、父・教房の知行地ではなく、摂関家の一条家の荘園です。教房も、自らの知行地に下ってきたというよりも、一条家を代表して自家の荘園の監督・経営のために下ってきたわけです。教房が亡くなった時点で、一条家の家督は教房の弟の冬良が継承していますので、教房が亡くなったからと言って、房家が幡多荘の監督・経営の権利を継承するというのは、公的にはありえないことです。房家は、母の出自が高くないことから、庶子として扱われていたと考えられます。貴族や上級武士では、庶子の身の処し方は継嗣のない他家の養子に入るか、出家して仏門に入るか、分家して主家の家来筋になるかというように、いくつかの選択肢がありますが、最も多いのは、出家の道です。房家の場合も、当初は、出家して僧籍に入ることが予定されていたようで、足摺岬金剛福寺へ移ったというのは、将来を見越してのことだったのかもしれません。また、母方の実家の加久見氏の本拠地が足摺岬の付け根のあたりですので、その支援を受けるのにも格好の場所です。こう考えると、房家が中村の地を去ったのは、幡多荘内で不穏の動きがあったか否かにかかわらず、必然であったと言えます。そんな房家は、明応3年(1494年)に18歳(20歳)で元服し、正五位下に叙され、左近衛少将に任じられます。これは、仏門に入るという房家の既定の路線が変更されたということを意味します。これによって、房家は、以後、土佐・中村にあって父・教房の行ったように幡多荘の荘務を監督することとなります。これは即ち、房家が一条家の別家を立てたことを意味します。つまり、房家は、摂関家とは別に、一家を成したということです。これによって、摂関家とは別に、土佐の一条家が設立することとなるわけです。そして、土佐一条家は、摂関家の一条家の家臣筋となったわけです。父の教房は摂関家の一条家を代表して下向し、荘務を直接監督したわけですが、房家は、一条家の代官として幡多荘の荘務を監督することとなったわけです。これ以後、およそ100年の間、土佐一条家は摂関家の一条家の被官として、幡多荘の荘務を行うこととなります。
僧籍に入ると考えられていた房家が、一条家の被官として幡多荘の荘務を担当することになった理由はわかりませんが、戦国時代の無秩序へと傾斜していく社会状況が、一条宗家をして幡多荘の確保の必要性を感ぜしめた結果かもしれません。あるいは、不安定化する土佐の国人同士の軋轢を避けるため、土佐の国人から一条家への要請があったのかもしれません。そもそも、房家の元服が18歳の時であったというのが異例です。元服は、遅くとも15歳前後というのが通例ですので、18歳、ないしは20歳というのは異例の遅さです。その理由は判然としませんが、この頃に、房家の行く末に関する路線変更がなされた可能性は大だと思います。この後、房家の子孫は代々、幡多荘の代官の地位を世襲していくこととなります。
土佐一条家の当主は、摂関家の分家として、以下のように、いずれも高位高官を授けられています。
一条房家 - 正二位、権大納言、土佐国司
一条房冬 - 正二位、左近衛大将
一条房基 - 従三位、右近衛中将、非参議
一条兼定 - 従三位、権中納言
一条内政 - 従三位、左近衛中将
一条政親 - 従四位下、右衛門佐、摂津守
朝廷から高い地位を授けられているという権威が、他の国人から盟主として認められる大きな理由であったわけです。
土佐には七雄と呼ばれる有力な国人が7家ありました。房家が幡多荘の代官としての仕事を始めた当初は、国人間のもめごとも、そう多くはなかったようです。というのも、土佐は細川京兆家が守護を務めており、当主の細川政元は幕府内で大きな権勢を築いていたこともあって、土佐では細川家のにらみがきいていたからでしょう。この状況に劇的な変化が現れるのは、永正4年(1507年)に起こった政元暗殺事件、いわゆる「永正の錯乱」以後のことです。九条政基のところでも書きましたが、この暗殺によって、それまで家督相続の争いとは無縁であった細川家内で、その跡目をめぐっての争いが起きます。細川家内は分裂し、守護国への影響力は極端に低下します。国人間のパワーバランスを調整してきた細川家の存在の喪失は、土佐の国内での秩序の崩壊を意味します。そこでまず、標的とされたのが、七雄のうちの一家で、細川家との関係がことさらに強かった長宗我部氏です。細川政元が亡くなった翌年の永正5年(1508年)、かねてから長宗我部の当主の兼序との間で紛争が続いていた山田氏をはじめ、七雄の本山氏、大平氏、吉良氏が同盟して長宗我部氏の居城・岡豊城へと攻め込みます。この戦いで兼序は自害し、長宗我部氏はここで一度断絶します。しかし、兼序は一子の千雄丸(後の長宗我部国親)を逃し、その身柄を一条教房に託しました。房家はこの子を養育し、後に本山氏との間で和睦を斡旋、長宗我部氏の再興を助けます。この和睦によって、長宗我部氏は本山氏の家臣格となり、雌伏の時期を迎えます。
これ以後、七雄を中心として、土佐の国内は覇を競う戦乱の時代へ突入することになります。
七雄とは本山氏、吉良氏、安芸氏、津野氏、香宗我部氏、大平氏、長宗我部氏の7家です。それぞれの拠点は安芸氏(安芸市)、香宗我部氏(香南市)、長宗我部氏(南国市)、吉良氏(高知市春野町)、大平氏(土佐市)、津野氏(津野町)、本山氏(本山町)です。所領の規模は本山氏、安芸氏、津野氏、吉良氏が5000貫、香宗我部氏と大平氏が4000貫、長宗我部氏が3000貫です。ちなみに、一条氏の支配地は16000貫とされているので、官位の点ばかりではなく、所領の規模でも一条氏は他に抽んでている存在です。
永享の錯乱以降、土佐の情勢は流動化していきます。大永6年(1526年)には、安芸氏が隣接する香宗我部氏を責めて勢力圏を拡大します。永享3年(1530年)頃には、山間部を拠点とする本山氏が高知平野へと侵出を開始し、平野部の朝倉城へと本拠地を移します。本山氏は天文9年(1540年)頃、吉良氏を滅亡に追い込み、さらに、一条氏とも干戈を交えるなど、積極的な拡大戦略を推し進めます。天文15年(1543年)に、津野氏が一条氏の庇護を求めて臣従したのは、おそらくこうした本山氏の動きに危機感を覚えたからではないでしょうか。天文15年(1546年)には一条氏が大平氏の居城・蓮池城を奪取し、同氏を傘下に収めます。これにより、一条氏は仁淀川以西を支配地とすることとなります。弘治4年(1558年)には香宗我部氏が、隣接する安芸氏と長宗我部氏の圧迫に耐えかねて長宗我部国親の三男・親泰を養子に迎えることを決断、長宗我部一門として家名を存続させる道を選びます。こうして、七雄のうち4家が滅亡、ないしは没落して、安芸氏、長宗我部氏、本山氏が勝ち組として鎬を削ることとなります。
この間、土佐一条家は房家、房冬、房基、兼定と4代を経過しています。初代の房家は天文8年(1539年)に亡くなります。享年65とも63ともいわれます。二代目の房冬は、42歳で家督を継承しますが、わずか2年で鬼籍に入ってしまいます。房基は20歳で土佐一条家の当主となり、津野氏を降し、大平氏の本拠地を奪い、さらに伊予にも侵攻するなど、土佐一条氏として最大の版図を獲得します。その房基が、天文18年(1549年)、28歳にして自殺して果ててしまいます。理由は、狂気のためと言われていますが、詳細は不明です。このため、一子の兼定が7歳にして土佐一条家の当主となります。しかし、兼定はまだ幼少のため、兼定の大叔父にあたる摂関家の一条家第11代当主・房通が後見をすることになります。房通は房家の次男で、嫡子のなかった冬良の養子となって家督を継いでいました。このため、摂関家も土佐一条家も教房の血統が継ぐことになっていたわけです。
兼定の時代は、長宗我部氏が急速に台頭してきた時期です。長宗我部氏は仇敵である本山氏を最優先の敵とし永禄3年(1560年)5月の長浜の戦いで本山氏に大勝し、以後、本山氏は守勢に追い込まれます。永禄6年(1563年)には本山氏は平野部の拠点である朝倉城を自ら放棄して山間部の本山城に退きますが、本山城も保ちえず、永禄7年(1564年)には瓜生野に後退。しかし、結局、長宗我部氏の圧迫に耐えきれず、降伏のやむなきに至ります。この時の本山家の当主の親茂の母は、長宗我部国親の娘であり、本山家を降伏させた長曾我部元親の甥にあたることから、降伏後は長宗我部家の家臣として重きをなすことになります。
本山氏を降した長宗我部氏にとって、次の標的は安芸氏です。香宗我部氏を併呑したことにより、長宗我部氏と安芸氏は境を接することとなり、境界をめぐって緊張状況が続いていました。長宗我部氏と本山氏の戦闘の激化の間隙を縫って、永禄6年(1563年)に安芸氏は一条氏の援護を得て兵を起こし、長宗我部氏の本拠の岡豊城へ侵攻しますが、長宗我部氏は城を死守し、安芸氏は撤収せざるを得なくなります。さらに、永禄12年(1569年)にも長宗我部討伐の行動を起こしましが、長宗我部氏側もこれに対応して出兵。本山氏を麾下に収めた長宗我部氏の勢威に安芸氏は抗する術がなく、ついに滅亡の運命を甘受せざるを得なくなります。
安芸氏が滅んだことで、土佐の東部は長宗我部氏の勢力圏となり、西部を領する一条氏と対峙する状況になります。
おそらく、一条氏と武力により雌雄を決することのリスクを考慮した結果でしょうか、長宗我部氏は調略で一条氏の領地を蚕食していきます。
こうした状況の下で、兼定は筆頭家老の土居宗珊とその一族を無実の罪で殺害して信望を失い、天正元年(1573年)に羽生監物、為松若狭守、安並和泉守などの合議によって隠居っを余儀なくされます。翌年には妻の実家の豊後の大友氏を頼って土佐の地を離れます。土佐一条家の家督は兼定の嫡子・内政が継ぎます。筆頭家老の土居家の誅滅や、三家老の兼定追放は、おそらく、長宗我部氏の調略によるものと考えられます。兼定追放後、一条家の領地は長宗我部氏の支配下となり、家督を継いだ内政には長曾我部元親の娘を娶らせ、一条家の本拠地である中村から長宗我部氏の居城に近い長岡部大津に移し、一条氏の本拠の中村には長宗我部氏の当主の元親の弟の吉良親貞を置く、といった一連の動きは、あまりにも長宗我部氏に都合よく進んでいることから、この一件は長宗我部氏の策動とするのが妥当だと思います。
土佐一条家の家督交代に際して、京都の一条家がどの程度関与していたのかはわかりません。兼定が当主の座を追われた天正元年(1573年)に、一条本家の13代当主・内基は土佐に下向して中村に逗留していました。嫡子の内政が11歳で次期当主に就任する際、内政の元服の儀を執り行ったのは内基であると伝えられていますので、この一挙を事前に知っていたかはともかくとして、当主交代という事態を一条本家は承認した、ということになります。
豊後に移った兼定は、義父の大友宗麟の影響からか、天正2年(1574年)にキリスト教に入信し、ドン・パウロという洗礼名を授けられます。翌年、兼定は土佐や伊予で同心する国人を糾合し、大友氏の援護も受けて失地奪回の兵を起こします。伊予西海岸の法華津に上陸した後、東進し、中村を目前とするまで攻め上りますが、あと一歩というところで長宗我部軍に敗退。兼定は伊予の戸島に落ち延びます。以後、ここを根拠地として、旧領回復を図りますが、ついに果しえず、天正13年(1585年)7月1日に戸島で死去。享年43。兼定の死によって、土佐一条氏の歴史は実質的に幕を閉じることとなります。
一方、兼定の跡を継いで、名目上、土佐一条氏の第5代当主となった内政は、天正9年(1581年)に起こった長宗我部家内の謀反に連座した嫌疑で伊予法華津に追放されてしまいます。その後、同地で亡くなったとされています。
内政には政親という嫡子がいたとも言われますが、その動静はほとんど伝わっていません。
都の上級貴族である一条教房が自家の荘園の直務を執るべく土佐に下向したことから起こった土佐一条家。先にも述べたように、家祖の教房は大名になろうとはいささかも考えず、荘園の円満な経営を目指し、それに成功しました。その一子の房家は、応仁の乱以後の不安定な世情の中で、一家を興し、土佐の国人の盟主として、中村を本拠地として戦国大名化していきます。以後、4代にわたって土佐西部に強大な勢力を築きますが、16世紀の後半、戦国時代も末期に近づくにつれて、急速に台頭してきた長宗我部氏の勢いに抗し得ず、下克上の波に沈んでいくという、悲劇的な結末を迎えることになります。
前回の九条政基のように、応仁の乱以後の不安定な情勢の中で、自家の荘園に下向して直務を行うという例は他の貴族にもあったでしょうが、土佐一条家のように在地の大名化するの例は少なく、まして、一大勢力を築くというのは、まれなことと言えるでしょう。


【参考】
「宿毛市史」