「フランス女性の歴史 1」を読む | アカエイのエピキュリアン日記

「フランス女性の歴史 1」を読む

「フランス女性の歴史 1」(アラン・ドゥコー・著/川田靖子・訳/大修館書店)を読みました。




著者のアラン・ドゥコー(Alain Decaux)は、1925年にフランスのリールで生まれました。若くして劇作家を志し、名優で名演出家のサッシャ・ギトリーの門を叩きます。20歳の頃に処女作「ルイ17世」を著して作家としての道を歩み出します。以後、劇作とともに、フランスおよびフランス人の歴史を中心に数々の歴史書を発表。1956年からは、フランス国営放送の「カメラによる歴史探訪」を担当するなど、作家・歴史家・ジャーナリストとして活躍しており、1979年にはアカデミー・フランセーズの会員になっています。
本書は、「HISTOIRE DES FRANÇAISE」の一部訳です。一部訳というのは、原書の中の、17世紀から19世紀までの部分を訳したものであり、原書の前半部分、すなわちゴール時代、ローマの統治、ゲルマンの支配、そして中世を扱った部分は割愛し、かわりにその部分については巻頭で簡略に要約するにとどめているからです。これは、本書の「はじめに」で、訳者の一人であり、本巻の訳者である川田靖子氏が書いていることで、この割愛は訳者の都合ではなく、出版社側の営業的な配慮、有り体に言えば、日本人に馴染みのないゴール時代やローマ帝国支配下のフランス、ましてやゲルマン支配時代や中世のフランスの女性史などは、読者の興味を惹かないだろうという判断からのものです。ということで、本書は、先に書いたように、王朝時代の始まりである17世紀から、革命を経て女性解放運動の起こる19世紀までのフランスの女性史を四巻にまとめたものです。
訳者は各巻異なり、第一巻「ルイ十四世治下の女たち」(川田靖子)、第二巻「君臨する女たち」(柳谷巖)、第三巻「革命下の女たち」(渡辺高明)、第四巻「目覚める女たち」(山方達雄)となっています。
第一巻は「ルイ十四世治下の女たち」と題され、まず、既に述べたように巻頭に16世紀までの女性史の要約が語られた後、ルイ十三世の妃であり、ルイ十四世の母であるアンヌ・ドートリッシュのエピソードから、本巻の本筋は始まります。アンヌは、ルイ十三世の没後、幼くして即位したルイ十四世を助け、摂政として国政を宰領します。ルイ十三世は、宰相のリシュリュー枢機卿の助言を得て、ユグノーの鎮圧、王権の絶対化に、一応の成功を収めます。摂政となったアンヌも、基本的にはこの路線を継承します。しかし、これは、一方で有力貴族の権益を侵すことであり、宮廷内に不平分子が形成されます。そして、これがパリの暴動へと発展します。発端は、陰謀の首謀者と目されているボーフォール公を逮捕したことです。ヴァンセンヌの牢獄に投じられたボーフォールは、しかし、脱獄します。陰謀の首魁が野に放たれたわけです。アンヌはこれに対し、ボーフォール派と見られていたパリ高等法院判事のブルーセル老を逮捕させます。この逮捕は、パリの人々にとって、パリに対する挑戦と受け取られました。パリの人々は蜂起し、辻々にバリケードが張られ、王宮は民衆に包囲されました。この状況に、アンヌは譲歩せざるを得ず、ブルーセルを釈放します。しかし、これは、一時しのぎの策略です。アンヌは幼い国王と、宰相マザランら近習の者を引き連れて、サン=ジェルマンへと脱出します。民衆の反乱は、貴族の反動派と結びつき、一時は強勢を誇ります。しかし、敵の姿が眼前から消え、激情に押し流されていた民衆の心は、一気に鎮静します。そして、王の帰還が待ち望まれるようになります。国王の帰還は、凱旋のように歓呼で迎えられることになります。これが、「フロンドの乱」と呼ばれる反乱劇の大略です。この騒乱では、反国王側で女性の活躍が目立ちます、ロングヴィル夫人、シュヴルーズ夫人、「グランド・マドマゼル」と呼ばれたアンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンなど、反乱を主導する存在といってもいい女性たちです。
「フロンドの乱」の結果、フランスの王権は強化され、ルイ十四世の絶対王政への道が開かれます。「大世紀(グラン・シエークル)」と呼ばれる偉大な世紀の始まりです。この時代、女性は(もちろん、限られた、ごく少数の女性は、ですが)社会の中で、かなり目立った、時には、ある分野において主導的な活躍をすることになります。もっとも、それは「フロンドの乱」の女性のような女傑ではなく、より洗練された性格を持ったものになります。モリエールの喜劇などで辛辣に揶揄される女性像が、彼女たちの姿です。ルイ十三世時代の、軍人風な粗野な流儀は、彼女たちによって変革を迫られました。風俗を建てなおし、言語を改正すること、それが彼女たちの最初の関心事となります。その変革は、女性たちのサロンにおいて行われることになります。ランブイエ侯爵夫人、オーシィ夫人、デ・ロージュ夫人のサロンなどが最も早い例ですが、これらのサロンの性格は、社交の場であって、礼儀については強い関心を示しますが、フランス語の矯正については、当初はそれほどの関心を示してはいません。しかし、このサロンに学者や詩人などの教養人が出入りするようになると、サロンでの話題にも、正しい言語のあり方が加わるようになります。美しく礼儀にかなった動作と、美しく法則にかなった言語。サロンでは、こうしたものが求められます。とはいえ、それは、既存のものがない以上、自分たちで生み出していかなければなりません。このようにして、サロンは、望ましい礼儀作法と正しいフランス語の中心地となったのです。その新たな風俗は、サロンの外にも影響を与え、市中の、ことに女性はサロンの風俗を真似ようとします。模倣者は、発案者の精神よりも形式を尊び、教条主義的な情熱でその形式を極限まで変質してしまうものです。そして、そうした行き過ぎた高尚趣味は、モリエールに格好の揶揄の題材を与えることになります。その、ある種滑稽な高尚趣味の典型は、スキュデリー嬢のサロンでしょう。ドゥコーの評価によれば、「スキュデリー嬢のサロンとランブイエ館との根本的な違いは、調子の違いだった。カトリーヌ・ド・ヴィヴォンヌ(注:ランブイエ侯爵夫人のこと)のもとでは、のびやかさが主調であったのに、スキュデリー嬢の閨では、衒学趣味が主調となった」ということになります。「しばしば集会はプログラムどうりに行われた。念入りに恋歌(マドリガル)を作成したり、大まじめに世間の問題、ことに恋愛問題を議論した」とスキュデリー嬢のサロンを紹介しています。これが、田舎となるとさらにこの傾向が昂じて、「不自然に誇張された表現」を使うことが上品な挙措であるとされてしまう。例えば「燭台」を「太陽のかわりのもの」、「シャツ」を「生者と死者のたえざる仲間」、「頬」は「恥らいの王座」、「月」は「沈黙のたいまつ」といった具合です。もちろん、こうした「気の利いた」表現のできない人は、軽蔑の対象となってしまうわけです。このように、滑稽な状況を現出させはしましたが、しかし、一方でフランス語の整備は進み、また、後の心理小説を準備する苗床となったのも事実です。
絶対王政の時代、最も重要な女性は、国王ルイ十四世を巡る女性たちでしょう。正妻はスペイン国王フェリーペ四世の娘マリア=テレサ。彼女は背が低く、太っており、お世辞にも美しいとは言えない外貌でした。「もちろん王はこのチンチクリンの妃を愛していなかったし、その後も決して愛するようにはならなかった」とドゥコーは書いています。しかし、王は彼女を、王妃として遇するだけの礼儀は心得ていました。そして、廷臣が彼女をないがしろにすることを許しませんでした。とはいえ、私的には王は決して妃に対して忠実であったわけではありません。「ルイ十四世が愛した女性は数えきれないほどであるから全部の名をあげるのは不可能」とドゥコーは書いています。その愛妾のリストにはマリー・マンシーニ、アンリエット・ダングルテール、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエール、アテナイス・ド・モンテスパン、マントノン夫人などの名があります。このうち、重要なのはモンテスパン夫人とマントノン夫人でしょう。モンテスパン夫人は名門の家に生まれ、王妃の侍女として宮廷に入ります。王の目にとまり、王の寵愛を受ける。これは宮廷に出仕する全ての女性の夢ですが、彼女はそれを単なる夢で終わらせるつもりはありませんでした。彼女は、その時王の愛妾であったラ・ヴァリエールの追い落としを図ります。生来善良で私的な野心のないラ・ヴァリエールには、つけこむ隙が十分にありました。モンテスパン夫人は、王妃を味方につけつつ、ラ・ヴァリエールを追い落とし、国王の寵愛を得ることに成功します。ドゥコーは、皮肉な口調で「ラ・ヴァリエールが彼(注・国王ルイ十四世)の心情をとらえたとすればモンテスパンは彼の肉体に訴えて魅惑したのである」「ラ・ヴァリエールが野に咲くスミレであるとすれば、モンテスパン夫人は正真正銘の娼婦であった」。彼女は、国王の寵愛を得るためにあらゆるものを利用しました。王妃の歓心を買うのはもちろん、媚薬や黒ミサをも利用しました。さらに、国王の寵愛が別の女性に移ろうとすると、毒を使いさえしました。彼女の望みは、権勢と富を楽しむこと。そして、事実、彼女はヴェルサイユ宮に君臨し、親王たちすらその権勢を恐れざるを得ないほどの存在になりました。しかし、それも、国王の寵愛を得ていればこそ。彼女の悪行が国王の耳に入るにつれ、次第に国王の愛を失うこととなります。それには、国王の愛情が別の女性に移ったということも理由の一つです。その女性こそ、フランソワーズ・ドービニェことマントノン夫人です。彼女は10歳の時に父と母を相次いで失い孤児となります。初めは叔母のヴァレット夫人のもとに身を寄せ、次いでパリのウルスラ会の世話を受けます。そのまま修道院に入るという道もありましたが、彼女はその選択はせず、親戚のヌイヤン夫人のもとに身を寄せます。この頃、詩人スカロンに見初められ、彼と結婚します。新婦17歳、新郎は42歳です。足に障害があり、車椅子生活のスカロンは、しかし、機知に富み、生気にあふれた教養人でした。結婚生活約8年で、夫のスカロンは亡くなります。未亡人となったフランソワーズは、友人の紹介で高名なダルブレ館のサロンに出入りするようになり、これが機縁となって彼女はモンテスパン夫人の知己を得ることになります。モンテスパン夫人の信頼を得たフランソワーズは、夫人と国王との間になした息子たちの養育係となりました。モンテスパン夫人に従って王宮の住人となったフランソワーズは、控えめでもの静かな態度から、ことさらに目立った存在ではありませんでした。モンテスパン夫人の子供たちの養育係として献身的に尽くしたことの報いとして、国王はフランソワーズにマントノン侯爵夫人の称号を贈ります。国王は、この慎ましやかで地味な女性を、はじめは変人扱いしていました。しかし、話をするにつれ、彼女の広大な知識に驚嘆し、美徳と冷静さに敬意を抱くようになります。先に引用した「ラ・ヴァリエールが彼の心情をとらえたとすればモンテスパンは彼の肉体に訴えて魅惑したのである」になぞらえて言えば、「マントノン夫人は彼の精神をとらえた」ということになるでしょう。そして、ついに、国王はフランソワーズとの結婚を決意します。とはいえ、社会的な階層の大きく異なる二人の結婚は、公的に発表することができず、秘密結婚となります。これ以後、彼女はフランスの共同統治者となります。この聡明な女性には、それに堪える資質が十分にありました。とはいえ、公的には女官であり、王の愛妾ですから、大っぴらにそれをひけらかすわけにはいきません。また、それをひけらかすほど愚かな女性でもありませんでした。常に王の傍らに慎ましく控え、下問があった時にだけそれに答える。しかし、彼女は確実に王の心をつかんでおり、私的にではありますが、王が最も信頼する「臣下」でした。マントノン夫人は次第に国王に対する影響力を増していきます。ルイ十四世が反宗教改革運動に乗り出すのは、マントノン夫人の考えを受けてのことと言われます。彼女は、宮廷の中で絶大な力を持つようになりますが、それは、単に己の権勢を楽しむためというのではなく、国王を助け、より良い統治の実現を目指してのことだったでしょう。だからこそ、ルイ十四世は彼女の意見を求めたわけです。単なる愛妾ではなく、共同統治者となった寵姫というのは、稀有な例と言えるでしょう。

フランスの歴史を見わたすと、女性の活躍が目に付きます。もちろん、良くも悪くも、ですが、女性はかなり力強く生きている、という印象を受けます。もっとも、それは「すべての女性が」というわけではありません。ごく限られた階層の、ごく一部の女性がそうであったのに過ぎないのですが、それでも、他国の歴史の中での女性の役割や活躍というものと比較すると、フランスの女性は、活発で積極的です。ことに太陽王の時代は、女性が主宰するサロンが輿論(宮廷内の、という限定付きですが)形成に大きな役割を果たしたという点は注目すべきことです。
(2015年04月08日(水))