「カーテンコールのあとで」を読む | アカエイのエピキュリアン日記

「カーテンコールのあとで」を読む

「カーテンコールのあとで」(スタニスラフ・ブーニン・著/松野明子・訳/主婦と生活社)を読みました。




著者のブーニンは、1966年モスクワ生まれ。17歳で第40回ロン=ティボーコンクールを、19歳で第11回ショパンコンクールを制覇したピアニストで、本書は彼の半生を語った自伝です。
彼は音楽家の家系に生まれました。祖父は高名なピアニストで、リヒテルやギレリスなどを育てた名教育者としても知られるゲンリッヒ・ネイガウス、父もまた有名なピアニストであるスタニスラフ・ネイガウス、母リュドミーラ・ブーニナもまたゲンリッヒの弟子で、スタニスラフ・ネイガウスの助手を務めた女性と、彼にはピアニストとしての血が流れています。そして、彼の最初のピアノの教師は母親でした。とはいえ、母は、必ずしも息子をピアニストにしたいと考えていたわけではありません。むしろ、息子が音楽家にならないようにと、三歳の息子に、ピアノを触ることを禁じていたほどです。しかし、運命は、彼をピアニストの道へと導きます。母の演奏旅行中の留守に、「いたずらっ気」を起こしてピアノを弾き、やがてそれに夢中になります。そして、耳を頼りにいくつかの曲を、なんとか弾けるようになります。演奏旅行から帰ってきた母親はこれを見て驚いたのは言うまでもないこと。それは、喜んで、ということではありません。ソ連における演奏家の実際を知っている母親は、息子がその道に進むことを懸念していたのです。それでも彼女が息子の音楽家への道を認めたのは、彼が「音楽に激しく、そして強く魅かれていた」ことと、「なんの面白みもないソ連社会で、息子を程度が低く心の貧しい生活に染めたくないという願望」からだったと、筆者は紹介しています。このようにして、彼はピアニストへの最初の一歩を踏み出します。母は、演奏家としての道を捨て、彼の教育に専念します。ピアノを始めて二年半、彼はソ連の音楽家の間で最高の初等教育機関とされているチャイコフスキー記念モスクワ音楽院付属中央音楽学校に入学します。ここで、母親の音楽院時代の友人で、ゲンリッヒ・ネイガウスの弟子であるエレーナ・リヒテルに師事、研鑽を積むことになります。
そして、二つのコンクールへの参加。弱冠16歳でロン=ティボーコンクールに参加し、見事優勝を勝ち取るまでの彼の心情やその周囲の状況などが紹介されます。そして、その2年後、ショパンコンクールへの参加。コンクールが開催されるワルシャワの街の熱気や、他の参加者の演奏に対するブーニンの見方など、コンクールの舞台裏のエピソードが語られます。そして、優勝。海外における熱狂と、ソ連国内における無関心と無理解。こうした不満足な状況からの脱出を目指しての西側への亡命。こうした、彼の人生のインサイド・ストーリーが、彼自身の筆で明らかにされています。

読んでいて、最も彼が多くその筆を費やしているのは、ソ連という国家に対する嫌悪と怨嗟の感情です。彼は、芸術というものに無理解で、イデオロギーでそれを弾圧するソ連という国家を、心底に組んでいました。そもそも、才能ある人間にとって、社会という枠組みは窮屈で、不愉快なものですが、ソ連のように教条主義的な社会体制では、それが一層著しくなります。また、実務的なことが重視されるような社会では、芸術などは非生産的な無駄とみなされます。彼は、あるいはその先人の芸術家たちは、そうした無理解で無趣味の政治指導者たちのもとで、自らの感性を磨き、芸術活動に必要とされる知識を蓄積せざるを得なかったわけです。これは、実際、多くの困難を伴います。例えば、設備の整った練習施設がなかったり、また、西側の知識に触れることが極端に制限され、それを破れば、場合によっては生命の危機にすらなります。精神の自由を最も尊び、また必要とする芸術家にとって、これほど暮らしにくい環境はないでしょう。本書は、そうした一人の芸術家の、国家との戦い、というよりは、国家の体制の中で抜け道を求めてさまよう様子を描いた、告白、といったものです。
(2014年11月15日(土))