日本映画の持つ”粋”を感じさせてくれる「幕末太陽傳」 | ガンバボーイ2号のGuerrilla Radio

日本映画の持つ”粋”を感じさせてくれる「幕末太陽傳」

「アマゾンプライムビデオの会員見放題で見つけた、ワタクシがチェックし損ねた映画な話。」

年末年始編の5発目は、1957年公開の「幕末太陽傳(デジタル修復版)」。

会社自体は日本最古の歴史を誇る映画会社の日活が、

1953年に映画製作再開を宣言し、1954年に調布に日活撮影所が竣工して3年目を迎え、

映画製作が軌道に乗ったことで「日活製作再開三周年記念」の煽り文句を付けた気合の一作で、

松竹の専属監督だったが1955年に日活が引き抜いた川島雄三がメガホンをとり、

フランキー堺や石原裕次郎を筆頭に、当時としては、これぞ日活の本気と言える豪華出演者陣を迎え、

実在した品川宿の遊郭を舞台に、「居残り左近次」をベースに、

品川宿を舞台にした古典落語の数々を随所にちりばめ、

様々な出来事をグランドホテル方式の構成で描いた群像喜劇。

アマゾンプライムビデオで配信されているのは、2012年に日活の創業100周年を記念し、

数あるライブラリーの中から「後の100年まで残したい1本」として選定、

本作で録音を担当した録音技師の橋本文雄による録音・修復監修を担当し、

2011年の年末にリバイバル公開されたデジタル修復版で、

観に行きたかったんだけど、関西圏での上映館がシネ・リーブル梅田程度で、

上映回数が限られてしまったため断念。

見てみたら、モノクロで描いた幕末の世界に、日本映画の”粋”を感じさせてくれたわ。

 

1950年代後半の京急北品川駅近辺が映し出されるタイトルバックから一転し、

幕末文久2年(1862年)にタイムスリップ。

東海道品川宿の遊郭、相模屋へ草鞋をぬいだ佐平次(フランキー堺)は、

勘定を気にする仲間を尻目に呑めや歌えのドンちゃん騒ぎを始める。

ところがこの佐平次、懐に一銭も持ち合わせておらず、居残りと称して相模屋に居着いてしまった。

佐平次は持ち前の機転の良さで、女郎や客たちのもめ事を次々と解決し、

遊郭に出入りする攘夷派の高杉晋作(石原裕次郎)らと交友を紡ぎ、乱世を軽やかに渡り歩く。

 

浮世の風にうつつを抜かし、女追うのも御時世ならば、国を憂うもまた時世。

乱世の幕末に躍り出た、チョンマゲ太陽族の艶笑秘聞。

 

と、日活の作品紹介サイト通り、文句のつけようがない痛快喜劇で、

川島雄三監督の緩急付けたカット割りや、セリフ運び、

この時代の日本映画だから実現できた、日活撮影所に作られた品川宿のセット、

後に「楢山節考」「うなぎ」でカンヌ国際映画祭を席巻することになる今村昌平がサポートしたことで、

公開から60年以上を過ぎても、唯一無二の傑作に君臨しているのが頷けるわ。

佐平次を演じたフランキー堺の飄々としたキャラクターが面白おかしく、

石原裕次郎をはじめとする、日活育ちの若かりし頃の名優たちがいきいきしてて、

その頃の日本映画界がエネルギッシュだってことを感じさせてくれた。

 

作品は成功を収めるんですが、それとは裏腹に、

川島雄三は日活のお偉いさんとの摩擦を起こしている。

1956年の「太陽の季節」の成功で、日活は若者向けにシフトしたが、

同作に登場した太陽族に対する世間の風当たりが強く、

日活社内でも”太陽族映画”を拒否する傾向が強かった。

日活は当初、文芸大作や新国劇との提携作品を出そうとしたんですが、

川島雄三が提出した演出プランや、田中啓一、今村昌平と共同で書いた脚本が、

いかにも日活のお偉いさんの逆鱗に触れる位のしくじりレベル。

・作中に登場する高杉晋作率いる攘夷派が、幕末における太陽族的ポジション。

・映画製作再開三周年大作なのに、古典落語をつなぎ合わせた喜劇映画だったこと。

・石原裕次郎をはじめスター俳優を脇に回し、軽演劇出身のフランキー堺を主演に迎えたこと。

・品川宿のセット予算など製作予算が膨大。

川島監督自身が抱いていた待遇の不満も重なり、これらの軋轢を抱えたまま撮影が進み、

この「幕末太陽傳」を最後に、日活に三下り半を突きつけ、

東宝の関連会社だった東京映画に移籍し、時々大映で発表しつつ映画を撮り続け、

1963年6月、45歳の若さで逝去。

一方、今村昌平とフランキー堺は、川島雄三監督が生前にやりたかったことを後に実現させている。

今村昌平が1981年に製作された松竹配給の時代劇「ええじゃないか」は、

舞台が「幕末太陽傳」から4年後の西両国にしているが、

「幕末太陽傳」でやり残した部分を弟子の今村昌平が実現させている。

フランキー堺は、川島雄三監督と、

謎に包まれた浮世絵作家・東洲斎写楽の映画を作ろうと約束していたんですが、

約束が果たせられないまま、1963年6月に川島監督が逝去。

フランキー堺は亡き川島監督のために、俳優業の傍ら東洲斎写楽の研究を続け、

1995年に自身のプロデュースで、篠田正浩を監督に迎えた真田広之主演の「写楽」を作り上げた。

約束を果たしたその翌年の1996年にフランキー堺は逝去。

両作とも興行的にはパッとしなかったんですがね(苦笑)