背番号17  土田達也です。
4年間の大学生活が終わり、社会人生活がスタートしていることに驚きを隠せません。
もうコスモでペラドンをすることがないと思うと悲しくなります。

人生初の引退ブログを書くことになりました。小・中・高・大と続けてきた学生スポーツが終わり、競技生活に一区切りを迎えます。これまでの競技生活を振り返ってブログ書いていこうと思うので、大学以前のサッカー生活についても触れていきます。
ガジルまでの前置きが長くなることを先に謝ります。


「大学でも早起きして部活を続けているなんて凄いね」
大学生になって、友達に会うとよく言われます。
僕は6歳からボールを蹴り始めてから、今年で17年目になったそうです。これまでの人生を振り返ってもここまで長く続けてきたものはないし、続けようと思ったものもありません。
中学生のときに書き始めたサッカーノートは2冊目に突入せず、1日を有意義に過ごすために初めてた朝活は3日で終わり、資格の勉強本や小説は棚の中で埃をかぶっています。

なぜそんな自分が16年もボールを蹴り続けることができたのか、それは

「僕にはサッカー、フットサルしかなかったから」だと考えます。

小さい頃は周りと比べて足が速く、姉の友達とよく鬼ごっこをしていました。走る練習にもなる!と思って始めたサッカーはいつしか生活の中心となっていました。
小学生の頃は、地元のサッカーのクラブチームとスクールを掛け持ちして、授業の休み時間や友達と遊ぶ時もサッカーをしていました。

中学生の頃は、クラブチームの他に、サッカーで必要な走力を鍛えるために学校の陸上部に仮所属をしました。学校の朝練では長距離を走り、放課後はクラブチームでサッカーするという生活を続けました。

高校生の頃は、サッカー推薦で入学したこともあり、試合があれば文化祭だろうと休んだし、帰りが遅く毎日寝不足で学校に向かっていたのを覚えています。それでもサッカーをやめようとは思いませんでした。

そして大学。
高校3年生の12月過ぎまでサッカーをしていた僕は当然受験勉強をしていませんでした。
そこで、受験科目が少ない大学に絞り、たまたま合格したのが順天堂大学でした。
ガジルに入部を決めたのは中学生のときの苦い思い出が関係しています。

僕が中学生に所属したクラブチームはフットサルにも力を入れており、U-15のフットサル選手権に出場しました。
対人とドリブルをすることが大好きだった僕にとってはボールを触る回数が多いフットサルはとても魅力を感じました。
チームは千葉県大会・関東大会を優勝し、全国大会出場を決めました。全国大会ではグループステージを勝ち進み、準決勝に進出することができたのですが、僕はグループステージで、交代の時に交代ゾーンの外から交代をしてしまったことと、チョンドンの壁のときの距離不足という2枚のイエローカードをもらい、累積で準決勝に出場することができませんでした。チームはその準決勝で負けてしまいました。この大会が中学生最後の大きな大会であったため、そのピッチに立つことのできなかった悔しさで人生で1番泣きました。開催地の三重県から帰るバスの中でずっと泣いていたのを今でも覚えています。

そこから、いつかフットサルの全国の舞台でリベンジをしたいという気持ちがありました。そんな中で、先輩のけんやさん、同期のあおい、松尾のしつこすぎる勧誘を受け、フットサル部への入部を決めました。

新型コロナウイルスが流行し、半年間は部活の活動が制限されていたため、僕たちの代は9月に入部をしました。「絶対に全国大会に出場してやる」と張り切って取り組もうとした矢先、入部から4日目の練習で高校の時の右膝靭帯の怪我が再発をし、リハビリ生活となりました。
新しい生活環境で心が不安定な中、頑張ろうと決意してからすぐの怪我で完全に心が折れてしまいました。
同期が真剣にフットサルをしている姿が輝いて見えて、劣等感を感じていました。何事もやる気がなくなり、部活を辞めようと何回も考えました。フットサル以外にやりたいことを見つけたらすごに辞めようと思っていましたが、「サッカー、フットサルしかなかった」僕には新たな目標を見つけることができず、辞めることはなくリハビリを続けました。
心が折れてしまった僕はリハビリに全力を注ぐことができず、トレーナーをしてくれていた2年先輩の剛さんには本当に迷惑をかけました。

結果的に1年半ほどのリハビリを経て、2年の2月に練習復帰をし、2月中旬にあった学生リーグの優勝決定戦に出場することができました。その後また1ヶ月間リハビリ生活となったため、チームの練習に本格的に合流したのは3年生の4月でした。

それからはフットサルの楽しさ、奥深さにどんどんのめり込んでいきました。
チームの活動は週6日、毎朝6時15分からありました。僕は実家から練習に通っていたのですが、始発の電車に乗っても練習の開始の6時15分には間に合わず。毎日1時間ほど遅れて練習に参加していました。ただ、朝が激弱の僕にとっては早起きするのが苦痛で。朝を迎えるたびに憂鬱になっていました。過去の自分が活躍したプレー映像であったり、励ましてくれる曲を聴いてなんとか練習に臨んでいました。

よく聴いた曲は
「勝利の笑みを君と」
「僕のこと」
「終わりなき旅」
とかですかね、

昼以降は元気になるので、そこからはフットサルのことばかり考えていました。その日の練習動画がアップロードされるのをひたすら更新して待ち続け、アップロードされたら自分の上手くいったプレーを何回、何十回も見直して、自分の頭の中に良いプレーのイメージを蓄積させました。また、バイト中にもなにかできることはないかとスクワットをしたり、想像で目の前に架空の選手をつくりアイソレーションのイメトレをしていました。チームに復帰してからの約2年間、ガムシャラにフットサルを続けました。

カンカレの決勝で多摩大に力の差を見せつけられ心が折れても、ガジルとして最後まで戦うことを決めて挑んだ関東2部リーグへの参入戦で思うようなプレーができなくても、
ガジルの最後試合であった地域CLで結果を残せたことで、大学生活をフットサルに捧げてきたことが報われたような気がしました。入部したての時は決して上手いとは言えなかった同期が、全国の舞台で躍動している姿を同じピッチからみて胸が熱くなりました。この同期と切磋琢磨できて本当に幸せです。

同期のみんな、こんな自分勝手な僕を最後まで見捨てないでくれてありがとう。この同期じゃなかったら途中で諦めていたかもしれません。この同期と関東大学リーグ優勝決定戦、地域CL一緒に戦えてよかった。

ここまで振り返った通り、6歳からの16年間、僕の生活にはいつもサッカー、フットサルがありました。楽しかったことはほとんどサッカー・フットサルが与えてくれて、その倍以上の苦しかったことも僕にもたらしました。
人との関わり方や、勝負に向かうことの楽しさや苦しさ、本気で向き合い叶わなかった時の己の未熟さも教わりました。
そして何より試合に出れず、悔しい思いを抱えながらもスタンドから全力で応援してくれる仲間や、試合残り数秒で僕にボールを集めて信頼してくれる仲間、お前が必要だと奮い立たせてくれる仲間にも出会うことができました。
自分が活躍してチームを勝利に導くことができた時、仲間の想いに応えられたという安堵感や、
誰かの喜びの一端を自分が担えた喜びで自分に価値を見出せた瞬間です。
そして、この部活で学生スポーツを引退することができてよかったです。

これから生活の中心が変化してしまうのがとても不安ですが、この16年間で学んだことを活かして乗り越えていこうと思います。

拙い文章になってしまいましたが、最後まで読んでいただきありがとうございます。
これからも順天堂大学フットサル部GAZIL/jfc をよろしくお願いします。

改めて、4年間ありがとうございました。